仏教の受容をめぐる物部氏との宗教対立のほか聖徳太子とも対立したといわれ、王権奪取を目論んだとして滅ぼされるに至る蘇我氏の系譜。悪者として描かれることの多い一族の再評価を試みる。
奈良県明日香村にある石舞台古墳。埋葬者は蘇我馬子といわれている。

中大兄皇子の英雄伝説のために
敵役として描かれた蘇我氏の不運

 皇極2年(643)2月、それから同3年(644)6月に、国中の巫覡(神に仕えて、祈祷や神おろしをする人)が蝦夷のもとに集まり、競い合って神語を伝えようとしたという話がみえる。これは蘇我氏への王朝の交替が間近いことを暗示する記事といえよう。

 皇極2年10月、蝦夷が病により朝廷に出仕できないので紫冠を入鹿に勝手に譲渡したと伝え、蘇我氏があたかも天皇の権限を侵したかのように記される。だが、紫冠は蘇我氏の族長位を象徴するものであり、蝦夷は冠位授与という天皇の権限を侵犯したわけではないのである。

 同年11月のこと、山背大兄とその一族が入鹿に襲われて殺害されたことが記される。入鹿はあくまで蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(母が馬子のむすめ)を次期天皇にしようとして山背大兄を襲撃したのであるが、『日本書紀』皇極紀の一連の文脈のなかでは、これが蘇我氏による天皇家乗っ取りに向けての行動であったかのように描かれることになるわけである。

 皇極3年正月、いよいよ中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が登場、入鹿が「君臣長幼の秩序を乱し、天皇家に取って代わることを企てている」ことを何とかして阻止しようと行動を開始したという。鎌足はやがて中大兄皇子(天智天皇)をいただき、蘇我氏誅滅の計画を推し進めていくのである。

 同年11月には蝦夷・入鹿が天皇家の宮殿をみおろす甘檮岡に邸宅を造営。蝦夷邸を上の宮門、入鹿邸を谷の宮門と称し、一族の子女を王子とよばせたと描かれる。これなどは、蘇我氏による王権簒奪のカウントダウンが始まったかのような叙述といえよう。

 
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