そして、皇極4年(645)6月、中大兄や鎌足らによって蝦夷・入鹿が誅殺された顛末が詳細に語られる。入鹿の罪状は中大兄によって、
「天宗(天皇家)を全滅させ、日位(皇位)を我が物にしようとした」
と告発され、ついにその野望は粉砕されたと記されるわけである。

 倭国において天皇に仕える者は天皇から姓をあたえられ、それゆえに天皇とその一族は姓をもたないというように、君臣関係が制度的に固定されており、その意味で中国におけるような王朝交替は封印されていた。それにもかかわらず『日本書紀』の皇極紀が、蘇我氏による王権簒奪の野望とその挫折を具体的に描いているのはいったいどうしてであろうか。

 それは、蘇我氏を滅ぼしたほかならぬ天智が、その没後に「天命開別」天皇という諡号をたてまつられ、「中国にあったような王朝の始祖」あるいは「王朝中興の祖」というべき英雄として誇大に祭り上げられることになったからであった。そのため、天智にはそれに相応しいエピソードが「創作」されねばならなかった。

 蝦夷・入鹿が王権の存立を脅かすような悪事を働いた、天皇家に取って代わろうとする不遜な野望を抱いていたという物語が創出されることになったのはそのためである。蘇我氏が天智の手で討たれることがなければ、彼らがこのような稀代の逆臣として描かれることもなかったに違いない。また、天智の子孫が代々皇位を受け継ぐ限り、蘇我氏に復権の機会が訪れるチャンスはなきに等しい。

 天智が「王朝中興の祖」とされたのはα群の編纂段階であったと考えられる。とすれば、天智をこのように祭り上げたのは、そのむすめでありながら、叔父であり夫でもある天武天皇とともに壬申の乱を起こし、権力を奪取した持統天皇その人だったのではないかといえよう。