西郷隆盛は、激動の幕末という時代をともに生きた様々な英傑たちから、どのように見られていたのだろうか。『歴史人SPECIAL 西郷隆盛と幕末維新の争乱』で、歴史アナリストの外川淳氏が解説をしている。

坂本龍馬(国立国会図書館)

「坂本龍馬は、盟友の西郷に対して『少しく叩けば少しく響く』と、多少の上からの目線を込めながらも、西郷が利用の仕方によっては重大な役割を果たすと評価した。逆の見方をすれば、誰かが叩かなければ、利用価値のない巨大な釣鐘に過ぎないことを示唆した。

 坂本は、寺田屋で襲撃されたのち、鹿児島の西郷家に滞在したころの感慨を姉の乙女(おとめ)宛ての手紙で『西郷もその家内も、とても心の広い人なので、まったく気遣いをすることがありません』と表現した。
 また、『薩摩藩の進退は、この人がいなければ、一日たりとも、どうにもならない』と、西郷を高く評価した。坂本が残した手紙から判断すると、両者の関係は良好であり、西郷が暗殺の黒幕となるような亀裂を感じ取ることはできない」

 龍馬暗殺の黒幕ではなさそうである。

木戸孝允(国立国会図書館)

「長州閥の代表として西郷と対峙した木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)。西郷が下関を舞台にして開催されるはずだった会談を土壇場でキャンセルしことに対し、薩長同盟が無事に締結されても根に持っていた。
 廃藩置県(はいはんちけん)では、共通の目的のため行動したことにより、心の距離感が近づいた時期もあった。だが、岩倉遣欧使節団に参加し、日本を留守にしている間隙をつき、西郷が長州閥の一掃に加担すると、両者の溝は深まった。

 明治10年(1877)5月26日、木戸は、ストレスの蓄積に起因する脳の障害によって病没した。木戸は、死ぬ間際、『西郷、大抵にせんか、予(よ)今(いま)自ら赴きて之(これ)を説諭すべし』と、薄れる意識のなかで語ったという。
 木戸が病没したころ、戦局は政府軍有利に傾きながらも、西郷軍は宮崎南部を舞台にして抵抗を続けていたのである。

 木戸は、心の奥底にある西郷への不信感が朦朧(もうろう)とした意識のなかで再燃するとともに、談判すれば、説き伏せることができるという自負も残されていたと思われる。なお、維新の三傑と称される木戸、西郷、大久保のうち、畳の上で死んだのは、最初に旅立った木戸だけだった」

 いろいろと確執もあった関係だが、結局西郷のことを心配していたようである。

『歴史人SPECIAL 西郷隆盛と幕末維新の争乱』「『南洲翁遺訓』から読み解く西郷の思想と生きざま」より〉