前回44秒差で散った中央大学が、今年の箱根駅伝の予選会を3位で突破。2年生主将・舟津彰馬を軸に団結した名門校が、伝統の「C」のユニフォームで新たな歴史をつくることができるのか。
箱根を目指す選手たちの1年を追った「箱根駅伝ノート」を12月に上梓。自身、元箱根駅伝ランナーでもある酒井政人氏が、そのドラマに迫った。同大学の挑戦を全5回に渡ってお届けする。〈第5回〉
中山顕選手の練習日誌。ノートにも自身の成長を書き綴る。

 箱根駅伝の人気が高まるなかで、高校生へのスカウティングは過熱している。そういう時代になった今でも中山顕(3年)のような選手が出てくることに少し驚いた。というのも中山はどの大学からも声がかからず、スポーツ推薦ではなく、一般入試で中央大に入学した選手だからだ。

 埼玉・伊奈学園では貧血もあり、インターハイ路線は県大会の5000mで予選落ちするレベル。当初は「大学で競技を続けるつもりはなかった」というが、10月の大東大記録会5000mで自己ベストを30秒ほど更新する15分08秒をマークして、「大学でも挑戦してみよう」という気持ちが芽生えた。学内の指定校推薦を勝ち取り、中央大の法学部に進学した。

「箱根駅伝に憧れていたんですけど、自分のタイムでは目指せない、雲の上の舞台だと思っていたんです。箱根は自分の夢でもあったので、中大のユニフォームで走りたいと入部を希望しました」

 陸上部とは何の関係もなかったため、中山は自分から浦田春生駅伝監督(当時)に電話をかけて練習に参加。最初は正式な部員ではなく、「準部員」という扱いだった。長距離の同期は10人いて、そのうち中山、関口康平、柏木亮太の3人が準部員。「5000m15分00秒未満」が正式入部の条件だった。

 準部員は陸上部の寮に入れないどころか、「C」のマークや、「中央大学」の名前が入っているウエアも着ることは許されなかった。チームの応援には自分が持っている市販のジャージを着て出かけたという。

「僕ら3人は関東インカレのときも、授業を優先しろ、と指示されたくらいです。そういうのも悔しかったですし、3人で『見返してやろう』と頑張ってきました。でも最初は練習についていけませんでしたね。走行量が増えたので、すぐに故障してしまったんです。でも、森勇基コーチ(当時)がそんな自分を見捨てずに、オリジナルの練習メニューを作ってくれたおかげで基礎ができたと思っています」

 仮入部から7か月。11月の日体大長距離競技会5000mで中山は14分58秒をマークする。今となっては何ということもないタイムだが、「これで『C』のジャージが着られると思って、ラストは死に物狂いで、無理やり動かしました。とにかくうれしかったですね」と中山は振り返る。

 
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