6世紀〜7世紀前半に中国に出現した強大な随・唐に対抗するべく、日本は中国の律令法を学び、天皇中心のまとまった国にすることが急務となった。天皇の権威と権力を高めた3天皇の政治手腕に迫る(連載第1回目)。
天智天皇を支えた天武天皇が眠る、野口王墓古墳。

天地・天武・聖武天皇時代の日本が置かれた状況とは?

 6世紀初頭に即位した継体天皇以降、天皇(当時は治天下大王といった)の地位は同じ血縁集団から選出されるようになった。ここに天皇を出す特別な血縁集団としての皇族・天皇家が成立したのである。天皇家の権威は、天上の世界(高天原)から降臨した神(天神)の子孫ということに由来するとされた。

 天皇は大和・河内に基盤をもつ有力な豪族たちのサポートを受けて国政を運営した。そして、地方豪族やその支配下の民衆に対して、天皇・皇族に対する貢納や奉仕の義務を割り当てたのである(たとえば、長谷という名の天皇に貢納・奉仕する集団は長谷部、馬の飼育・調教に奉仕する集団は馬飼部のように)。

 列島各地に住む豪族や民衆は、天皇・皇族にどのような貢納・奉仕を行うかによって把握され編成されていた。そして、天皇の宮廷に仕える豪族たちも地方からの貢納・奉仕を管理する仕事をそれぞれ分担して受け持ち、その職務を世襲していたのである。彼らが名乗るウジ・カバネはその世襲の職務を表していた。

 

 この体制のままでは、列島規模で集められた物資・労力をダイナミックに運用することなど発想すらできない。しかし、6世紀末〜7世紀前半、中国に久々に統一帝国(隋・唐)が出現し、周辺諸国に強大な影響力をおよぼすようになる。
 そうなると、中国や朝鮮三国に抗して国家の威厳を保つための大規模な公共事業を興し、場合によっては対外戦争を遂行せねばならない。そのためには従来の世襲体制では対応できず、全国規模で物資や労力を徴収・分配するシステムを構築し、その管理・記録に熟達した専門職(これが官僚)を育成する必要がある。

 中国で発達した律令法にはそのためのノウハウが凝縮されていた。7世紀半ばの大化の改新とは、世襲体制の解体とそれに代わるシステム創出のために行われた一大改革だったのである。