岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

 さて、「裏関ヶ原の合戦」その第2回め。関ヶ原合戦の別ルートの戦い。中山道ルートじゃなくて、本願寺教如が襲われた話。

 慶長5年(1600)7月。
 徳川家康への面談をはたした本願寺教如は京都へ向かいます。その途中、石田三成に待ち伏せされ、安八郡森部の光顕寺に立てこもり、石田軍と戦います。このときが最も激しい戦いでした。安八郡内の15箇所の村から82人が選抜されて教如の護衛にあたりますが、そのうち19人が戦死するという戦いでありました。

 

 ともあれ教如は脱出、大垣・西円寺の住職を身代わりにして(この住職は石田三成軍に殺されてしまいますが)、中山道ではなく、国見峠ごえをめざすことに。

 ここらへんからけっこう雰囲気がけわしくなってきます。
 8月23日に徳川家康側の福島正則たちが石田三成側の岐阜城を落とし、そして西美濃・赤坂の勝山にはいります。ここから大垣は目と鼻の先──というか、現在は勝山は大垣市です。
 大垣・西円寺も城作りの大きなお寺(お堀も残っています)なんですが、さらに奥の池田町・片山善性寺へ。坂の途中にある、これもけっこうおおきなお寺です。

 

 まだまだお寺めぐりは続きます──というか、この時点ではまだ石田三成は中山道をすすんでいる身代わりが偽物とは気がついていない。その間になんとか京都に戻ろう、ってことでさらに教如一行は山に向かいます。

 そして池田町般若にある西法寺。

 

 一見こぶりに見えますが、やはりここも地味にお城づくりになっています。トイレが別棟で建っているんですが、これが実に清潔で洋式。しかもあったか便座。いやまあ、教如の時代にはあったか便座なんてなかっでしょうが。

 ここから本格的に峠道に入ってゆきます。
 ちなみにこのころに家康は東海道経由で美濃入りをし、大垣城に居座る石田三成と睨み合うことになる。
 その一方、石田三成は教如暗殺の手をゆるめようとしません。こうしてみると、石田三成というのは本当にこまめというか几帳面というか。教如の暗殺を計画するヒマがあるんだったら、目の前の徳川家康をなんとかしろよ、と思ったり。

 ともあれ、ここからいよいよ峠ごえがはじまります。この続きは次回。