6世紀〜7世紀前半に中国に出現した強大な随・唐に対抗するべく、日本は中国の律令法を学び、天皇中心のまとまった国にすることが急務となった。天皇の権威と権力を高めた3天皇の政治手腕に迫る(連載第4回目)。
天智天皇を支えた天武天皇が眠る、野口王墓古墳。

補佐役と宿命づけられた天武の、人生を賭けた一発大逆転の秘策

 天智10年(671)12月、天智は近江大津宮で亡くなるが、その直前、天武は持病を理由に大友の輔佐役を辞退、出家して吉野の山中に入った。翌年6月、天武は大友を首班とする政権を倒すために決起する。こうして古代最大の内乱、壬申の乱が始まった。天武は面従腹背の半生に訣別し、まさに人生の一発逆転を企てたのである。

 天武は、天智が諸国を支配するために派遣した官僚(国司)らをことば巧みに抱き込み、彼らが大友の命令で集めた数千・数万の兵力を居ながらにして我が物とすることに成功した。短期間に膨張した天武軍は各所で大友軍を撃破、大友は山背国の山前で自害して内乱は終息した。

 天武は都を近江の大津から飛鳥にもどし、天武2年(673)2月、飛鳥浄御原宮で正式に即位した。天武は天智・大友から権力を略奪したという印象をなくすためにも、従来の大王(厳密には治天下大王)に代わり、新たに天皇の称号を名乗ることになる。

 

 天武は当初、天智の政策・方針を引き継ぎ、中国の唐が日本列島に侵攻してくる最悪の状況を想定した臨戦体制の維持・継続につとめた。だが、天武10年(681)以降、唐による侵略の危機が完全に去ると、唐から学んだ律令体制の本格的な導入とその定着に全力を傾ける。
 たとえば、のちに飛鳥浄御原令となって完成する律令の編纂が開始されたのは同年2月であった(ただ、律は年月を要した)。また、その翌月には歴史書の編纂が始められた。これが約40年後に『日本書紀』全30巻として結実する。

 さらに天武は、中国的な都城(京内が東西南北道路によって整然と区画されている)の建設にも着手した。これは彼の生前には完成しなかったが、のちの藤原京の原型もその手で造られたのである。

 天武は在世中から皇后・鸕野讃良皇女(天智の娘)を次期天皇と決めていた。この持統天皇によって天武の政策と方針は受け継がれていく。