6世紀〜7世紀前半に中国に出現した強大な随・唐に対抗するべく、日本は中国の律令法を学び、天皇中心のまとまった国にすることが急務となった。天皇の権威と権力を高めた3天皇の政治手腕に迫る(連載第5回目)。
天智天皇を支えた天武天皇が眠る、野口王墓古墳。

正統な世継ぎとして生まれた聖武天皇

 聖武天皇ほど誤解されている天皇はいないのではないだろうか。彼は天皇でありながら妻の光明皇后やその実家である藤原氏のいいなりで、政治や社会の不安を鎮めるためにひたすら仏教に救いをもとめた心弱き帝王と見られがちである。

 聖武が生まれたのは大宝元年(701)。父は文武天皇、母は藤原不比等の長女宮子であった。実名を首といったが、それは外祖父不比等の名に由来した。
 聖武は生まれながらに天皇となることが決められていた。それはひとえに彼の血統によるものであった。
 父文武は、天武天皇と持統天皇(天智天皇の娘)のあいだに生まれた草壁皇子が父、持統と同じ天智の娘の阿閇皇女(のちの元明天皇)が母であった。このように天智・天武双方の血を色濃く受け継ぐ特別な天皇が文武であり、その正当な世継ぎこそが聖武とされたのである。

 

 さらに聖武は、母を介し鎌足・不比等と父子2代にわたり王権と国家に奉仕した藤原氏の血も受け継いでいた。その点で同時代において彼に勝る血統をもつ者はいなかった。それは聖武を確実に即位させようとして、元明(聖武の祖母)と元正(同じく伯母)と母娘2代の女帝が擁立されたほどである。

 神亀元年(724)2月、聖武は晴れて即位するが、それと同時に生母宮子を律令の規定にはない「大夫人」の名でよぶように命じた。これは、天皇である彼が律令には拘束されないこと、母の実家藤原氏が尊重されるべき特別な貴族であることを誇示するためであった。