6世紀〜7世紀前半に中国に出現した強大な随・唐に対抗するべく、日本は中国の律令法を学び、天皇中心のまとまった国にすることが急務となった。天皇の権威と権力を高めた3天皇の政治手腕に迫る(連載第6回目)。
天智天皇を支えた天武天皇が眠る、野口王墓古墳。

天変地異は天皇のせいだった……使命感から大仏造立を決意

 神亀4年(727)に当時夫人の地位にあった藤原光明子(不比等の3女)が皇子を出産すると、聖武は直ちにこの乳児を皇太子に立てる。それは、聖武の後継者が彼と同じ藤原氏の血を受け継ぐ皇子以外にはありえないとされていたからであった。だが、この幼い皇太子は翌年病死してしまう。

 その翌年(神亀6年)2月、左大臣長屋王が謀反の容疑により自殺する事件が起きた。いわゆる長屋王の変である。これは、皇太子の死が長屋王の呪詛によるものであると聞いた聖武が怒りの抑制を失ってしまったことによる悲劇であった。事件の半年後、聖武は、皇后は皇族からえらぶという前例をあえて無視して光明子を皇后に立て、彼の後継天皇を生むのが彼女しかいないことを改めて周知徹底させた。聖武にとって先例は無視するためにあるかのようである。

 

 だが、聖武にとって最大の頭痛の種は、その即位以来打ち続く地震や疫病などの天変地異であった。この時代、自然災害はすべて君主の責任とされた。聖武自身、「その責めは予ひとりにある」と語っているほどであった。
 血統だけでなく、あらゆる意味で理想的な君主をめざす聖武としては、すべての民を自然災害から守らねばならないという使命感があった。彼が、慈悲の光で全宇宙をあまねく照らすとされる盧舎那仏の巨像(大仏)を造立しようと企てたのはそのためであった。

 聖武は「大仏造立の詔」のなかで「天下の富や権力をたもつのは朕であり、その力をもってすれば大仏を造ることなどたやすい」と豪語している。このように大仏という無限の力を秘めたものを建造できる君主としての自分を誇示するという意図が彼にあったことは明白である。

 天皇である以上、既存の国家機構や財政に依存すれば、たしかに大仏造立など容易だったであろう。それにも拘わらず、聖武はそのようなシステムを利用しようとしなかった。彼自身のよびかけに応じてあらゆる階層から集められた物資や労力を結集して大仏を造ろうとしたのである。それは仏教の「智識」思想の実践にほかならなかった。
 聖武の凄さはここにある。近代以前において、このような形で巨大プロジェクトを企画・立案し、それを成し遂げた天皇は絶無だからである。