忍城水攻めにまつわる話題の第2弾。石田三成は、豊臣秀吉の命を受け、天正18年(1582)6月5日、忍城攻めを開始する。だが、豊臣勢は沼地に足をとられ、ようやく城に接近しても、城内からは銃弾や矢が雨のように浴びせられたため、多くの死傷者を出して撤退。

 7日、三成は、忍城より南東約3キロに位置する丸墓山という古墳に上り、忍城と一帯に広がる沼地を遠望。その結果、水攻めが最適な攻略方法と判断する。

丸墓山と石田堤。写真中央より後方の墳丘が丸墓山。写真手前中央の遊歩道状の土手が石田堤

 まず、三成は大量の労働力を確保するため、高額の賃金を住民たちに提示。しかも、昼夜兼行よる工期縮小のため、夜間作業に従事する場合の賃金は倍近くに達した。

 

 築堤の高さは2メートルから4メートル、幅は約10メートルに達した。丸墓山を起点とし、その総延長は15キロにも及んだ。9日から開始された工事は、14日の正午には完成。そして、16日には、利根川から水流が築堤の内部に引き入れられた。

江原観音院 石田勢が利根川の堤防を決壊させた江原の地には 三成が水攻めの成功を祈願した観音院が伝わる

 三成は、もうひと雨降れば、水攻めの効果は高まると期待していた。18日には雨が降り始めたのだが、予想以上の降水量だったことから、築堤の一部が決壊。濁流は攻城方に押し寄せ、数百名が溺死。築堤内に貯められた水は放出されただけにとどまらず、豊臣軍の接近を拒む泥沼が城の周囲を取り囲んでしまう。
 つまり、水攻めの失敗によって忍城は、さらに攻めにくい要害となってしまったのだ。

 これまで、水攻めという方法を決断したのは三成自身とされる。だが、秀吉が作戦を指示するため三成へ送った書状などを再検討してみると、三成は秀吉の指示を受け、水攻めを実行に移したという可能性が高い。三成は秀吉の指示で水攻めを実行しながら、その失敗を主君に帰すことなく、全責任を自身で負ったと思われる。
 忍城水攻めの話題は、次回へ続く。