遊女を置いた温泉リゾート施設まで登場!? 宗教と結びついてレジャー化した、平安から中世にかけての日本の「お風呂文化」。その興味深い実態とは? 風俗史家の下川耿史さんにお聞きした。

◆儀式的要素が強かった天皇の入浴と御湯殿

 奈良時代の施浴に始まる入浴の習慣は、平安時代になると独自の進化を遂げてゆく。この時代の主人公は天皇家を中心とした貴族たちで、彼らが作り出す王朝文化が華開いた。
 その大きな特徴は、この時期は大陸との正式な交易が途絶えていたことから、日本独自の文化=国風文化が確立していったということだ。それは入浴に関しても例外ではない。もともと入浴の風習はインド発祥の仏教による教えが、中国を経て日本に伝わったものである。温室や浴室といった呼び名も、そもそもは仏教用語を日本語に訳したものであった。

「平安京に建てられた天皇の住まいである内裏(だいり)には、最初から御湯殿が設けられていました。この湯殿という言葉は日本で生まれたものです。天皇は毎朝辰の刻(午前7時頃)になると入浴します。その刻限に合わせ、係の者が釜殿で湯を沸かし湯殿に運びます。それを下級女官が浴槽に移し、湯の量や温度が整うと天皇は湯帷子(ゆかたびら)を身につけやって来ました。すると天皇直属の高級女官が垢すりを奉仕してくれました。毎日の入浴は穢れを祓う要素も強かったようです」と下川さん。

 なお貴族の屋敷に湯殿が設置されたのは、平安時代後期になってから。それもかなり身分の高い貴族に限られていた。そうした屋敷にもらい湯に出かけたことや、裕福な公家が町場の湯屋を借り切って、飲食しながら連歌の会を催して遊んだことなどが、貴族の日記に記されている。
 平安時代は貴族といえども、まだ内湯を備えた屋敷に住んでいた者はごくわずかであった。だが朝廷に勤めていた貴族たちは、信仰や病気療養のために長期休暇をとることは、それほど困難なことではなかったようだ。弾正忠(だんじょうのじょう)・藤原右賢なる人物が、長徳4年(998)に休職して信濃国の温泉に出かけたという記録もあるが、最低40日はかかったと思われる。弾正忠という低い身分でもそれが許されたのだ。

 また貴族の間で西国三十三所霊場に温泉巡りをセットにした、新しい娯楽が流行してきたのもこの頃だ。観音様の功徳にあずかろうとしたのが始まりで、寺院側も寄進を期待していた。霊場は近畿一円から岐阜までの範囲だったので道中には温泉も多く、湯浴みも同時に楽しめた。

 
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