日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

日本一の「ぶへん」と称された名将・清水宗治

 

 秀吉は、清水宗治(しみず・むねはる)を「日本一の武辺(ぶへん)」と称したという。秀吉は、「文武兼備の名将」宗治が籠もる備中高松城を攻めあぐみ、敵ながら最大限の賛辞を送った。


 宗治は、天文6年(1537)、備中国に生まれ、奇しくも秀吉とは同年齢にあたる。ただ、そのころの清水氏は、備中高松城主の石川氏を旗頭に仰ぐ一地方領主に過ぎなかった。だが、石川家当主の相次ぐ死により、永禄8年(1565)、宗治は備中高松城主の座を乗っ取ることに成功。その後、郡山城主の毛利氏を盟主として仰ぐことにより、備中国内における支配力の強化を策した。


 毛利氏内部では、三男の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が山陽方面を支配しながら、甥にあたる当主の輝てる元もとを支えていたことから、宗治は隆景の支配下に加えられた。天正6年(1578)、隆景が上月(こうづき)城を攻めたとき、宗治は備中から兵を率いて参戦。その際の武功を隆景に高く評価され、両者が個人的信頼関係を結ぶきっかけとなった。
秀吉は、天正9年に鳥取城の攻略に成功すると、攻撃の矛先を山陰から山陽へと転じ、翌年3月には備中へ侵攻する。

 

 「人たらし(他人を魅了する)」の名手といわれた秀吉は、宗治に対して「備中と備後の2カ国を与えるから、織田家に仕え、毛利家討伐の先鋒となってほしい」という書状を送った。
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