日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

追い詰められた宗治 籠城戦の行方は?


 「人たらし」の名手といわれる秀吉は、宗治を味方につけるべく書状を送った。


 このころの宗治は、備中の東半分を統治していただけにすぎず、秀吉から提示されたヘッドハンティングの内容は、話半分としても絶好の条件だった。だが、宗治は秀吉に対して「毛利家から受けた恩義を忘れることはできない」と拒否。備中高松城に立て籠もり、織田勢との対決姿勢を鮮明にした。

 

  秀吉は、調略によって備中を勢力下に収められないと悟ると、天正10年5月には備中高松城への攻撃を開始。沼地に囲まれた難攻不落の備中高松城に対し、「水攻め」という奇策を実行に移した。羽柴勢が突貫(とっかん)工事で城の周囲に土手を築き、そのなかに川の流れを引き入れたことから、備中高松城は、人工湖のなかに沈み、孤立無援の状況に陥ってしまう。


 隆景は、宗治からの救援要請に応じ、毛利勢の主力を率いて備中高松城に救援に駆けつけ、羽柴勢と備中高松城を挟んで対峙。だが、両者は決戦を避けて睨にらみ合いを続けた。隆景は、織田への服属もやむをえないと判断し、「落とし所」を探っていたのだ。 両者の和睦への思惑が複雑に交差するなか、6月2日早朝の本能寺の変の第一報が翌日の夜、秀吉のもとにもたらされた。秀吉は、中央政局の激変に対応するため、信長が死んだことを隠しながら、和睦(わぼく)交渉を一気に完結へと導く必要に迫られた。
<次稿に続く>