忍城水攻めにまつわる話題の第3弾。城主の成田氏が豊臣方に降伏したのち、忍城には平和が訪れ、その後、城主には譜代・親藩大名が赴任。明治維新後、城は使命を終えると、都市化の荒波に飲み込まれ、遺構の大部分は地上から姿を消した。

諏訪曲輪に残される土塁。忍城内に伝わる数少ない往時の遺構

 昭和63年(1988)、忍城本丸には御三階櫓と郷土博物館が完成。失われた忍城の姿が再現されたといいたいところではあるが、たくさんの間違い探しを城好きに提供している。
 まず、忍城の三階櫓は、南東の城の隅に位置し、現在の地点とは異なる。時代が平成になると、木造再建が主流となるのだが、忍城は鉄筋コンクリート再建の最末期にあたる。基部の石垣は、なれていない業者が必死に積んだ――といったら言い過ぎだろうか。

忍城三階櫓

 お城といえば天守閣という固定概念で建設される。昭和末期になれば、「行政の御乱心」ともいわれかねない? 三階櫓周辺は、堀や土塁などが整備されたものの、当時の絵図や発掘成果が生かされてなく、お城の雰囲気が演出された公園というイメージが強い。

 昭和40年代あたりであれば、ありえなくもない話ではあるが、昭和60年代になると、なかなか大胆な演出ともいえる。などと、ちょっと皮肉めいた表現を利用したが、本丸周辺を正確に復元可能なデータが存在しながら、利便性や外観重視の施工をしたことは、城跡という歴史的遺産を破壊するとともに冒瀆するに等しい行為との評価も存在する。

「昭和の築城」から20年以上の歳月が経過したいま、いかに適当な復元であったことを訪問者にわかりやすく説明する案内板を設置するなど、過去の失敗を認めた上での善後策を期待したい。