皇位継承の証として歴代天皇が受け継いできた宝物「三種の神器」。その神宝をめぐって、平安末期と鎌倉末期に繰り広げられた2大紛争の実態に迫る。
八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の宝物を「三種の神器」という。

失われた宝剣はレプリカ? 新たな形代が定められる

 壇ノ浦の合戦で失われた宝剣は結局見つからなかったものの、放置しておくわけにはいかなかった。
 九条兼実は、長女任子(宜秋門院)を入内させるにあたって、後鳥羽の元服儀を重要視していた。元服儀では、当然のことながら、三種の神器の扱いが問題となるからである。
 建久元年(1190)正月3日、朝廷では後鳥羽の元服に際し、昼御座の剣によって、宝剣の代用とすることを決定した。昼御座とは、天皇が日中にいる平敷の御座で、清涼殿の中にあった。昼御座の剣とは、そこに安置された剣である。
 宝剣を失って以後、朝儀・行幸では、従来の「剣が先、璽が後」という渡御の順番が逆転していた。兼実は宝剣代を用いて、本来の順序に戻すことを画策したのであろう。

 

 この件は種々議論を行ったが、一向に結論が出ず、後白河の判断も示されなかった。したがって、後鳥羽の元服儀における剣璽の順序は、変則的な「璽が先、剣が後」で執り行われた。
 宝剣代は、その後も長らく採用され、建久9年(1198)における土御門天皇践祚、承元4年(1210)における順徳天皇践祚の折にも、「璽が先、剣が後」で儀式が執り行われた。

 ところが、同年11月、順徳が伊勢神宮奉幣使発遣のために神宮官庁へ行幸した際、院となっていた後鳥羽は一つの名案を思いつく。それは、宝剣として、寿永2年(1183)に伊勢神宮祭主が後白河に贈った剣を採用することであった。
 後鳥羽の提案は、満場一致で可決された(『御即位奉幣部類記』)。この剣は「神宮御剣」と称せられ、順徳の行幸に間に合うように届けられた。この時点で、宝剣問題は一つの区切りを付けたのだ。