皇位継承の証として歴代天皇が受け継いできた宝物「三種の神器」。その神宝をめぐって、平安末期と鎌倉末期に繰り広げられた2大紛争の実態に迫る。
八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の宝物を「三種の神器」という。

幕府と戦いながら神器を携行、切り札とした後醍醐天皇

 南北朝期に至っても、三種の神器が問題になった。後醍醐天皇は元亨元年(1321)に院政を廃止すると、天皇親政による政治を行った。最終的な目標は、鎌倉幕府打倒である。後醍醐はその3年後の正中の変で失敗したが、その後も密かに倒幕計画を練っていた。
 元弘元年(1331)4月、吉田定房は、後醍醐の計画を幕府に密告した(元弘の変)。幕府は、笠置に逃れた後醍醐を捕らえ、翌年3月に隠岐に配流している。ところでこの時、後醍醐は天皇である証として、三種の神器を携行していた。
 元弘の変後の9月20日、後伏見の詔により、量仁親王は践祚した(光厳天皇)。『践祚部類抄』によると、剣璽渡御の儀は、「寿永の例」(前述の順徳天皇践祚の例)に拠ったと記されている。ただ、宝剣については、昼御座の剣で代用したようである(『竹むきが記』)。

 同時に、早くも俎上に上ったのが、後醍醐が持ち去った剣璽の行方である。『花園天皇宸記』の別記によると、剣璽の返却に関しては、同年10月4日に幕府から報告があり、後醍醐が剣璽の引き渡しを渋っているため、返還作業が難航しているとのことであった。
 ところが、後醍醐の態度は翌日に和らいだようで、剣璽の引き渡しに応じたのである。光厳天皇の側近は、剣璽を検査すると、問題がないことを確認した。そして、新しく櫃(ひつ)を準備し、剣と璽を納めて封を行っている。
 後醍醐が隠岐に配流されてからも、各地で討幕運動が繰り広げられた。元弘3年(1333)閏2月、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆の武将名和長年のもとを訪れると、各地に倒幕を号令したのである。
 討幕のキーマンというべき人物が、足利尊氏である。同年5月には尊氏が入京し、六波羅探題との戦いで勝利を得ると、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

 
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