皇位継承の証として歴代天皇が受け継いできた宝物「三種の神器」。その神宝をめぐって、平安末期と鎌倉末期に繰り広げられた2大紛争の実態に迫る。
二人の天皇が並び立った南北朝期。後醍醐天皇が携行した三種の神器は、南朝側が所持していた。しかし、その後南北朝の合一案が浮上した際に問題になったのは、北朝も三種の神器の保持を主張していることであった――。
八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の宝物を「三種の神器」という。

56年の分裂期を経て南北合一が成されるも…

 正平6年(1351)10月、今度は尊氏が南朝に和議を申し入れた。ここでもやはり問題となったのが、三種の神器の扱いである。
 すでに触れたとおり、北朝・南朝ともに三種の神器を保持していると主張している。『園太暦』正平6年12月9日条によれば、話し合いの中で三種の神器が話題にのぼり、北朝の持つ三種の神器が「虚器」つまり偽物とされている。
 結局、同年12月18日には、北朝から三種の神器はもちろんのこと、壺切の剣と昼御座の剣までもが差し出された。壺切の剣とは、立太子のときに天皇から授けられるもので、皇位継承者の証とされたものである。

 こうしてついに北朝の三種の神器が南朝に接収された。同月28日に三種の神器が吉野に戻ると、南朝では内侍所神楽を興行した。南朝がどさくさに紛れて、壺切の剣までも取り上げた意義は大きかったといえよう。
 その後も北朝と南朝は決裂したが、ようやく両者が合体したのは、明徳3年(1392)閏10月のことである。その立役者は、第3代将軍足利義満であった。この時の条件で重要なのは、「三種の神器を南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇に『譲国の儀』によって譲渡すること」である。

 

 南朝にとって不利な条件ではあった。しかし、室町幕府を擁する北朝との権力差は広がるばかりの状況にあった。和平を望む後亀山が選択したのは、合体への道であった。
 同年閏10月5日、後亀山は三種の神器をともない、後小松のいる土御門東洞院の内裏に渡御した(『御神楽雑記』)。三種の神器が内侍所に安置されると、三ケ夜神楽が行われ、南北朝合一は完了したのである。

 ところが、幕府と朝廷は、後亀山に太上天皇の尊号宣下を行う問題で頭を悩ませた。幕府と朝廷としては、南朝の皇位を認めたくはない。だが南北朝合体を実現するため、この条件を守らねばならなかった。そこで、後亀山を即位しなかった天皇とし、特例として尊号を与えるという離れ業を考えたのである。
 このように南北朝期の三種の神器は、皇位継承の問題とあいまって、非常に重要視されたのである。のちに南朝は奥吉野に本拠を定め、後南朝として抵抗を続けるも、神器を失った今や、往時の権勢には遠く及ばなかった。