<第49回>

9月×日
【「コタキナバル 辻くん」(前編)】 

 

中学の時、辻くんという級友がいた。

辻くんは、僕がいままで出会った人物の中で、トップ3にランクインする優しさを持った男であった。

体育館で跳び箱を使った授業をしていた時。僕は「どんなロイター板の踏み方をしたらそんなことになるんだ…?」「ごくり、初めて見たぜ、マットの上で白目をむいてる人間を…」「聞いたか?あいつが跳び箱から落ちた時にあげた奇声を。鳩の首をねじったような、気味の悪い響きだった。思い出しただけで吐きそうだ」と周囲を騒然させるほど、派手な転倒事故を起こした。すぐさま辻くんが肩を貸してくれ、保健室まで連れ添ってくれた。

脚を骨折していた。筋も何本か切れていた。

その日から三ヶ月の松葉杖生活が始まった。

辻くんはその三ヶ月間、毎日、登下校に付き添ってくれた。

驚くべきは、「辻くんと僕はそんなに仲良くない」という点である。

共通の趣味も会話も、特にない。

それなのに、辻くんは雨の日も雪の日も、毎朝、僕の家の玄関で待っていてくれた。あまり仲良くない級友の骨折を、気遣うために。

 

辻くんは、実に慈愛に満ちた人物で、表情にもその柔和な性格があらわれていた。大仏みたいなふっくらとした顔には、いつも微笑みをたたえていた。

制服は常に第一ボタンまでしめ、無論髪の毛は真っ黒で、教室にハエが入ってきたときは殺さず窓から上手に逃がし、みんなが嫌がる黒板消しクリーナーの清掃もすすんでかってでた。辻くんは、優等生であった。

 

その辻くんが、卒業式の日、前髪にメッシュを入れてきた。

現在であれば「EXILE色」と表現するのが的確な、なんとも言えない下世話な色のメッシュだった。

優しさと人情が売りの辻くんが、唐突に「ガム噛みながら仕事しているオートバックスの店員」みたいな要素を自らの前髪にぶち込んできたのだ。

そのメッシュについては、誰も触れられなかった。

 

いまならわかる。

完全に善良な人間など、いない。

どんなに優しい人間でも、かげではこっそりアリにお湯をかけたりプールサイドを走ったり友だちから借りたCDを指紋でベタベタにして返却してたりするのである。

「善」があるからには、「悪」がある。世界は「善」と「悪」でバランスを取っている。

辻くんは中学生活最後の日に、自分の前髪に最大限の「悪」を詰め込んだのだ。

三年間で積み上げた善行がバランスシーソーをしならせていた。その「善」への傾きの対局に「悪」の重石を置いたことで、辻くんは自らの崩壊を避けたのである。

 

 

で、話は不自然なほどに変わるが、コタキナバルという街をご存知だろうか。

 

「コタ」にも「キナ」にも「バル」にもまったくピンと来ない方、大勢いらっしゃると思われる。実際、僕もこの地名には馴染みが湧いておらず、「コタキナバル」と打ち込んでいる今も「J2p7zXlL」みたいな認証パスワードを打ち込んでいる時と同じ気分になっている。

そんな、コタキナバルに先日、旅の途中、立ち寄った。

次回に続く)

 

 

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