岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

 さて、裏関ヶ原・東本願寺(真宗大谷派)開祖・本願寺教如の危機一髪物語の4回め。

 慶長5年、小山評定直前に教如は徳川家康と会談し、本願寺の徳川家康支援を表明します。
 そして本願寺教如は家康とわかれ、京都にもどろうとします。
 本願寺教如の徳川支持を知った石田三成は、教如が京都入りする前に暗殺することを計画します。本願寺は織田信長でさえも十年がかりで和睦するのがせいぜい、というほど強大な武装勢力ですから、「本願寺が徳川を支持した」と判明したら、石田三成にとっては痛手になりますからね。

 で、石田三成は教如が美濃に入る前に阻止しようとしたんですが失敗。西美濃・光顕寺で包囲したものの取り逃がしました。さらに石田三成軍は教如の集団を追ってゆくのですが、陽動作戦で教如の身代わりの僧侶を追いかけて逮捕、殺害して首実検をしたものの、偽物と判明して、さらに追いかけてゆく、というのが前回までの話。

 教如一行は国見岳ルートをとることにします。だいたい同じころ、徳川家康の本体は江戸を出立。徳川軍の先鋒・福島正則らが岐阜城を攻略し、石田三成側も緊迫の度合いをふかめます。
 それ以上に「行けども行けども追手がいる」ってことは、同行している者たちのなかにも石田三成に通じている奴がいるわけですから、気が気じゃありません。結局、守りやすい地形ということで、山奥の洞窟に拠点をうつします。
 鉈ヶ岩屋(なたがいわや)というところで、現在でも車をつけるのは不可能。徒歩であがるルートが二箇所あるだけの、けわしい場所です。

 ちなみに峠にちかいほうの登り口にはこんなホコラが建てられています。教如上人の苦難をおぼえてなんたらかんたら、ってものかとおもってよくみると、これは弘法大師をまつってあるんだそうだ。弘法大師は真言宗だからまったく別のものです。まあ、それほどになんだかありがたい雰囲気がここにある、ってことです。

 
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