日本刀剣史上、最も有名な刀工と言ってよいであろう正宗。織田信長が嫡男信忠に正宗の脇差を与えるなど歴史の中においても、その名は知れ渡っているところだ。
 そんな名工はどのような人物なのか。「歴史人」3月号からその人物像を紹介する。

正宗が技を悪用しようとした息子の腕を切り落とした逸話を題材にした「新薄雪物語」。(国立国会図書館)

「鎌倉時代末期から、南北朝時代初期に相模の国鎌倉で活動し、五箇伝のひとつ『相州伝』を確立し、弟子を育成した刀工が正宗である。『観智院本銘尽』によれば、相州鍛冶の祖とされる新藤五国光が師匠とされるが、一説では父親の行光が師匠とも伝わる。構成、備前長船兼光など高弟の10名は正宗十哲と呼ばれた。ただし、この呼称は当時のものではないため、全員が直弟子とはいえない。

 正宗が宝刀へと飛躍したのは、織田信長の頃である。信長は天正9年(1581)7月22日の朝、3人の子息にそれぞれ一振りずつ刀を与えている。そのなかで嫡子・信忠に与えたものが正宗の脇差しであった。次男・信雄、三男・信孝が与えられた刀はいずれも『名物帳』に所載されており、正宗の脇差もまた、宝刀であったことがうかがえる。秀吉も又、正宗を贈ったことで知られており、この二人の英傑が正宗を進物の上位においたことは確かなようだ。

 

 正宗は数多くの逸話や伝説を生んだ。義理の母親に対する忠を描いた「背割り正宗」や、江戸時代には歌舞伎化された「新薄雪物語」などが知られている。新薄雪物語の中で正宗は、政治利用するために技を盗み悪用しようとした息子の手を斬り落としている。そして、改心した息子には以後、包丁を打たせる鍛冶をさせ弟子たちに許しを乞うている。もちろんこうした話は虚構ではあるが、歌舞伎化されたれるほど江戸時代の人々には知られて愛された人物であった」(文・山河宗太)

 特に秀吉が正宗を評価したことが知られており、その影響で諸大名が先を争って正宗を求めたという。そのため、贋作も多く見受けられた。秀吉が家臣に与えるために、架空のブランドを作ったのが「正宗」であり、実在が疑われたこともあった。 

『歴史人』2018年3月号「日本刀大図鑑より〉