671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。
王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第1回目。
壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

乙巳の変後、すぐには即位しなかった天智天皇

 古代最大の内乱と呼ばれる壬申の乱(672年、壬申年に起きたのでこう呼ぶ)は、天智天皇の後継の座をめぐるその弟天武天皇と天智の子である大友皇子という叔父・甥の戦いだったといわれている。それはたしかにそのとおりなのであるが、それぞれの立場はいったいどのようなものだったのかについて見ておきたい。

 天智天皇は実名を葛城皇子といい、有名な中大兄はいわゆる通称である。両親はともに天皇(舒明天皇、皇極・斉明天皇)であり、その長子として生まれた。敏達天皇に続いて舒明を出した押坂王家というべき家系のまさに正嫡の地位にあり、将来即位することが確約されていた。
 蘇我蝦夷と入鹿父子を倒した政変で活躍、若くして華々しいデビューを飾るが、その後しばらく皇位に就くことがなかったのは、当時、天皇に擁立されるのに年齢が問題とされていたためであった。その即位が現実味を帯びてきたのは彼が30代を迎えた650年代の半ば過ぎ、斉明天皇の時代になってからである。

 
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