671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。
王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第2回目。
壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

天智天皇の苦悩、大友皇子の立場

 天皇家の正嫡というべき天智にも苦悩があった。それは、その尊貴な血筋を子孫に伝えねばならないのだが、高貴な一族出身の女性とのあいだに皇子が生まれなかったことである。大友皇子、河嶋皇子、志貴皇子の母はいずれも地方豪族や弱小豪族の出であり、最も血筋のよい蘇我氏の遠智娘とのあいだに生まれた建皇子は言葉が話せないという重い障害があって即位は望めなかった。

 そこで天智としては、自身の皇女を弟の天武に嫁がせ、その間に生まれた皇子(天智から見れば孫)を将来天皇に擁立しようと企てたのである。この遠大な計画のもとに草壁皇子、大津皇子らが誕生する。後には長皇子、弓削皇子、舎人皇子らが呱々の声をあげた。彼らは生まれながら天皇になることが約束されていた皇子といってよい。あくまでも「大皇弟」天武には、その皇子にあたるこれら年若い皇子たちの後見役が期待されていたと見られる。
 ところが、天智がその晩年を迎えた段階で草壁、大津らはなお幼く、彼らのうち誰かが直ちに即位することは不可能であった。そこで天智が考えたのが、彼の長子である大友皇子を「中継ぎ」として立て、草壁、大津らの成長を待つということだったのである。

 天智10年(671)正月、大友皇子は創設された太政大臣の地位に就任、次期天皇として絶大な権力をあたえられた。天武にはこの大友の後見・輔佐という役割も新たにもとめられることになったと見られる。おそらくそれを確約させるためであろう、天武の皇女である十市皇女は大友に嫁すことになったのである。その結果、天武は娘婿となった大友のサポートに精励せざるをえないであろう。

 
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