671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。
王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第3回目。
壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

大友皇子自身には叔父天武への憎悪や殺意などなかったのか?

「壬申紀」の描くところによれば、天武天皇は、死期の迫った天智天皇のもとで自在に権力を動かしていた重臣らの魔の手を逃れて吉野宮に身を潜めていたが、彼らの攻撃は執拗であり容易にやまない。隠忍自重を続けてきた天武もついに堪忍袋の緒を切り、重臣らとの対決を決意したと描いている。あくまでも天武にとって壬申の乱が正当防衛の戦いであったことが強調されているといえよう。

 若い大友皇子はあくまでも彼ら重臣たちに担がれてしまったのであり、大友自身には叔父天武への憎悪や殺意などはなかったとされている。ただ、これらは天武の野心や内乱の真相を巧妙に隠蔽しようとして作られた設定であり、史実とは見なしがたい。
 実際はどうであったかといえば、天智10年(671)12月に天智が崩御すると、太政大臣大友皇子が直ちに「称制」を開始したと見られる。「称制」とはかつて天智も即位前に数年にわたって行なったことがあり、正式な即位の儀式を前に天皇権力を引き継ぎ、それを行使することをいう。天智の崩御後、大友は事実上の天皇だったといってよく、その名のもとに大友の正式な即位を脅かす危険な存在である吉野にある天武の掃討準備が着々と進められていたに違いない。

 
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