671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。
王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第4回目。
壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

吉野宮を立つ覚悟を決め、美濃国をめざす天武

 天武は、湯沐邑のある美濃国とそれに隣接する尾張国に大友側の徴兵の手がおよんだのを機に、ついに吉野宮を立つ覚悟を決め、一路美濃国をめざすことになる。それは6月24日のことであった。その2日前には美濃国安八磨評に向けて従者数名を先発させている。
 天武が動いたことは、おそらくその日のうちに大津宮の大友に知らされたはずである。それまでに大友は畿内一帯での徴兵を完了していたはずなので、さらに兵力を増強するため、新たに東国、吉備、筑紫に徴兵の使者を派遣した。さらに、旧首都の倭古京(現在の奈良県高市郡明日香村の一帯)にあった小墾田兵庫の武器をすべて大津宮に運ぶように命を下している。

 6月26日、天武は伊勢国桑名評にたどり着いた。この間、伊賀国において数百、伊勢国鈴鹿評では500の兵力を得たという。また、この日までに美濃国安八磨評とその周辺において3000の兵力を集め、大津と東国の連絡路である不破道の封鎖を完了した。さらに東海道、東山道方面で兵を募るべく、特使を派遣したのも桑名においてであった。

 

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