671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。
王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第6回目。
壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

大友がついに自害、敗北の原因は

 瀬田橋で大友軍が大敗した翌23日、大友は逃げ場を失って山前の地で自害を遂げる。享年25であった。山前は淀川河畔の山崎の地であり、彼は西国への逃走を企てていた形跡がある。

「壬申紀」は、大友を秦の始皇帝の後継者でありながら秦帝国の滅亡を早める結果となった暗愚の二世皇帝、胡亥に擬しており、その不明・不徳があたかも敗北の原因であるかのように描いている。さらに、悪逆の重臣たちによって牛耳られた大友軍は結束力を欠き、内訌や裏切りなどによって自壊したかのように描かれている。だが、これらは天武が勝つべくして勝ったことを強調するために作られたフィクションであり、実態はそのようなものではなかったはずである。
 全体的に見て、天武軍は倭古京を制圧するまではかなり苦戦を強いられており、天武は決してやすやすと勝利を拾ったわけではない。天武軍が倭古京の防衛に失敗し、大友軍による奪回を許していれば、勝敗が逆転、歴史は変わったかも知れない。「壬申紀」は戦闘の日付、場所、将軍の名前など克明に記されているので、一見したところ実録ふうである。しかし、だからといって戦いの推移や勝敗を分けたものなど、「壬申紀」の記すことを事実として鵜呑みにすることはできない。

 
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