「日本的であるもの」が外国人の目には極めて新鮮かつ魅力的に映ることである、そう考えると、漫画やアニメだけでなく、ファッションの面でも同じことが言えるだろう。
これまで日本のファッションが西洋をはじめとする世界のシーンに影響を与えてきた歴史こそ、クールジャパンの始まりかもしれない。ここでは1970年代以降、日本人デザイナーによるファッションブランドが、次々とヨーロッパのファッションシーンに影響を与えていった軌跡を、全3回にわたり振り返っていきたい。

第1回は1970年代。KENZO(ケンゾー)とISSEY MIYAKE(イッセイミヤケ)の時代を回顧する。

高田賢三と三宅一生。
2人の日本人が世界への扉を切り開いた

現在のクールジャパンブランドの始祖となった2ブランド。

 それまで画一的だったファッションシーンは、'70年代に入ると一気に多様化し、新たな時代に突入。その一翼を担ったのが、日本人デザイナー高田賢三の「KENZO」と三宅一生の「ISSEY MIYAKE」だった。

 「KENZO」の高田賢三は、'70年5月にパリのギャルリー・ヴィヴィエンヌに「Jungle Jap」という小さなブティックを開き、オープニングショーで浴衣地や紬、古ぎれなどを使った作品を発表して大成功を収める。同年にはその作品がなんとあの伝統ある『ELLE』の表紙を飾った。翌'71年にはパリ、東京、ニューヨークでコレクションを発表して、一夜にして世界的なセンセーショナルを巻き起こしたのだ。その影響力は、モードの帝王と呼ばれたかの「イヴ・サンローラン」にも匹敵するほどと言わしめた。

 

 一方、三宅一生の「ISSEY MIYAKE」は、'70年に設立した「三宅デザイン事務所」からスタートし、'71年にニューヨーク、'73年にはパリでコレクションを発表。日本の伝統的なフラットな洋服から発展した。“一枚の布”というコンセプトは、世界、とりわけ西洋のファッションに衝撃を与えた。やがて布と身体とをコラボレーションさせた独自のスタイルは、'78年に発表したIssey Miyake East Meets Westで集大成されることとなる。

 その後、世界への扉を切り開いた二人は対照的な道を辿る。1993年にスタートしたPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEが世界中に大ヒットした三宅は、現在もそのコンセプトを貫き現役として活躍中。一方の高田賢三は2000年春夏コレクションを最後にブランドから退き、2012年春夏からはウンベルト・リオンとキャロル・リムがクリエイティブ・ディレクターを務めている。

 

次回は1980年代、コム・デ・ギャルソンとヨウジヤマモトの時代をお届けします。