1930年代、当時新興の航空機メーカーだったメッサーシュミット社によって開発され、のちにルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の傑作戦闘機となった「メッサーシュミットBf109」の活躍を綴る連載。今回は第1回。
メッサーシュミット(右端)の左隣には彼を嫌うミルヒ(中央)が立ち、その左隣には理知派で知られたシュペーア軍需相が並ぶ。

二人の生みの親、ヴィリーとルッサー

 1933年6月、ドイツ航空省技術局は新型の単発単座戦闘機の仕様をまとめ、同国を代表する航空機メーカーであるハインケル社、アラド社、フォッケウルフ社の3社に提示した。当時、メッサーシュミット社もめきめき力を付けてきた新興の航空機メーカーだったが、航空省次官エアハルト・ミルヒの意向で、当初はこの競作への参加権を与えられなかった。
 なぜなら、ミルヒは前職のルフトハンザの重役時代に親友をメッサーシュミットM20輸送機の事故で亡くしていたが、欠陥が解消されていないにもかかわらず、同機を同社社長ヴィルヘルム“ヴィリー”エミール・メッサーシュミットが、自らナチス党員として親交があった副総統ルドルフ・ヘスの後押しで、ルフトハンザに半ば強引に納品したという事実を知っていたからだ。

 

 だが、ナチス党からの圧力だけでなく、それ以上にルフトヴァッフェ内部におけるメッサーシュミット社の参加を望む勢力の要望で、同社の参加が改めて認められた。かような背景をよく理解しているメッサーシュミット自身、今回の競作に負ける訳にはいかないと強く認識。そこで彼は、1933年にハインケル社からメッサーシュミット社に移籍し、完成当初は一世を風靡した連絡機Bf108タイフーンを手掛けた、自身がパイロットでもある航空機設計技師ロベルト・ルッサーと共同で、新型戦闘機の設計に着手した。

 しかし、メッサーシュミットもルッサーもともに一流の航空機設計技師として個性が強く、この新型戦闘機の設計開発中には侃々諤々、意見の衝突を繰り返したと伝えられる。設計に際し、Bf108の長所が多数流用されたのはもちろんのこと、独自の設計も盛り込まれた。そして1934年3月、基本設計案がBf109として航空省の承認を受け、同年10月のモックアップ審査を通過。
 翌1935年5月28日、試作1号機のBf109aがメッサーシュミットのテスト・パイロット、ハンス・ディートリッヒ・クニッチの手で初飛行に成功した。
 かくて、Bf109とルフトヴァッフェのエースたちが綴る渾身のサーガが始まった・・・。