大坂冬の陣・鴫野今福の戦いを歩く③

 鴫野から北北西方向へ、寝屋川越えで15分ほど歩くと、若宮八幡大神宮に行き着きます。

 この神社のあたりは、さきほどの鴫野の上杉景勝陣跡と同様、今福の戦いで幕府方の佐竹義宣が本陣を置いたと言われる場所です。

 

 境内には本陣跡をアピールする幟も。
 このあたりも、鴫野同様に川床から一段低い地形となっています。

 大和川北岸の今福でも、南岸の鴫野と同じく泥田の中で堤防上しか軍勢の行動がとれないために豊臣方の大野治長配下・矢野正倫と飯田家貞が堤防上に陣をかまえ、その前面の堤防を切り崩し、柵を結って守備していました。
 これに対して佐竹隊が攻撃を開始。この若宮八幡の東で合戦がおこなわれ、矢野以下200と佐竹隊1500がぶつかりました。矢野は中村一氏の家老だった人物で、幕府によって無嗣断絶とされた中村家の再興を条件に大坂城に入った、なかなか義理堅く気骨のある男でした。彼が佐竹隊の鉄砲で討ち死にしたあと、佐竹隊は前進して片原町口の柵まで占拠したといいます(「土屋知貞筆記」、『武徳編年集成』)。当事者が場所についてのちに証言したところでも「片原町の今福堤」(高松戸村書翰)で戦ったとありますが、片原町は大坂城京橋口の西側の旧町名です。すると、佐竹隊は今福で戦い、敗残兵を追って2km半ほども西へ進出したということになります。