勇猛で名を馳せた島津四兄弟。中でも四男家久の武勇は優れており、祖父日新斎忠良も「家久は軍法戦術に妙を得たり」と評している。秀吉の九州征伐の際、家久は降伏後に時をおかずして死没している。これについては、毒殺説が囁かれているが真相はどうなのだろうか。『歴史人』4月号では、家久急死の真相について、歴史研究家の桐野作人氏が解説している。

秀吉も家久の軍才を高く評価していたという。(美しくやさしい国史物語/国立国会図書館)

「島津中務大輔家久(1547~87)といえば、島津氏きっての猛将でいくさ上手として知られている。島原沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取り、豊後戸次川の戦いで長宗我部信親と十河存保を討ち取るなど、野戦で敵の大名クラスをこれほど討ち取った武将はほかにはいないといってよい。
 その家久も天正15年(1587)5月、豊臣の大軍に抗しきれず、佐土原城を囲んだ藤堂高虎の説得により降伏した。そして日向野尻にある豊臣秀長の本陣に出頭した。
 島津家中随一の主戦派だった家久の帰順を秀吉も喜び、兄義弘に与えた朱印状のなかで『家久は人質を差し出して開城したので、秀長に付いて上方へ上り、相応の知行を受けて奉公することになった。佐土原城とその周辺の知行を与える』と述べている。

 

 ところが、秀長の本陣から佐土原に帰ってほどなく、家久は他界する。享年41。若いうえにあまりに突然の死だったので、島津方では秀長による毒殺説がささやかれた。家久の家譜には次のように記されている。
『家久が出された盛り膳を食したところ、図らずも鴆毒の和菜や羹があり、これを食べて重病となり、療養の甲斐なく亡くなった』
 鴆毒とは中国南方に棲息する鴆という鳥の羽にある猛毒だが、毒物一般の総称でもある。
 しかし、家久は秀吉に帰順し、本領も安堵されているのだから、豊臣方が殺害する理由はないのではないかとも思えるし、豊後侵攻の最大の責任者だから、責任をとらされたという見方もできないわけではない。
 なお、秀長家臣が義弘に宛てた書状には秀長に同行した家久が病中だったと読める一節がある。毒殺か病死か、いまだ真相は不明である」

 秀吉も、島津一族の中で家久の軍事的才能を最も恐れていたというが、真実はいかに?

『歴史人』2018年4月号「乱世を生き抜いた名家 島津家の謎11」より〉