大坂冬の陣・博労淵の戦いを歩く②

 博労淵砦跡の推定地となっているマンション、その南側に回ってみると、

 上の写真のように3mほどの高低差があります。北側も同様に高低差があるのですが、マンションの西には橋が架かっているので、架橋のためにマンションの建てられた土地が後から高く盛られたものかどうか、それとも大坂冬の陣当時から高かったのは不明です。
 もし当時から一段高い土地だったのなら、砦に取り込むには最適の場所ということになります。西を流れる木津川は当時、今よりもはるかに広い大河で、大坂湾につながります。
 また、城の南からは小さい川が西流し、西区役所の前を通って木津川に流れ込みます(この川はのちに広く開削され、長堀川となります。現在は埋め立てられて長堀通りとなっています)。
 北は高み、西は木津川、南は小川。大坂城から西に張り出して、大坂湾と大坂城との通航を確保するにはうってつけの場所と言って良いでしょう。

 

 しかし、その砦を、しかもだだっ広い砦を、わずか700ほどで守れるものでしょうか? 400m四方とすると、兵たちは北と南の1mあまりに一人の割合で配置するのが精一杯で、予備さえ確保できません。
 つまり、最初っから幕府方が大軍で攻めて来れば玉砕するか放棄して撤退するかしかないのです。してみると、薄田兼相の失態というのも、実は当初から予定されていたものでしかなく、その汚名は敗退に我慢できない無責任な外野による濡れ衣だったのではないでしょうか。

 

 博労淵にちなむという「伯楽橋」から木津川を望んで一枚。正面は北です。