朝鮮出兵において島津軍の活躍は著しく、敵軍から「鬼島津」と恐れられるほどであった。島津家では、稲荷神を深く信仰しており、この戦いでも稲荷神の助けをいただいたといわれているが、その真実はいかに? 『歴史人』4月号では、この霊験の真相について、歴史研究家の桐野作人氏が解説している。

島津家では古くより稲荷大明神を信仰しており。その使いである狐を大切にしていた。

「朝鮮の役の終盤、慶長3年(1598)10月、島津義弘が朝鮮半島南部での泗川の戦いで、明・朝鮮連合軍数万の大軍に対して、わずか数千の兵で奇跡的な勝利をおさめたことは知られている。
 義弘はその勝報を国許の兄である太守義久に知らせた。そのなかで次のように述べていた。
『当城(島津軍の泗川新城)へ敵が攻めかかったとき、大手から白狐一匹が敵に向かって攻めていき、また水の手から赤狐二匹が敵勢と戦い、赤狐一匹が傷を負って戦死しました。(これにより勝利をおさめたのは)まことに前代未聞の慶事であり、ご神慮です』
 国許の義久も喜んで義弘に『戦場でお稲荷がご出現したのは奇特で霊験あらたかです』と返信している。

『お稲荷』とは稲荷信仰において、狐が稲荷大明神の使者であり、お告げを示すことから、狐を意味している。島津家は狐をずっと厚く信仰してきた。なぜかといえば、その初代忠久の生母丹後局が源頼朝の子を身ごもったが、正室北条政子に迫害されたので上方に逃れ、大坂の住吉大社で産気づいた。雨のなか、狐火が突如現れて闇夜を照らしてくれたので、無事男児を出産した。これが忠久だったという。
 これはもちろん伝説だが、以来、島津家では主に戦場で狐や狐火が登場して勝利に導いてくれたという吉瑞が島津方の史書に多数残っている。関ヶ原合戦の島津の退き口でも、狐が現れて道案内をしてくれたという逸話があるほどだ。
 泗川の戦いの3匹の狐も同様である。義弘の家臣帖佐彦左衛門がこの戦いの様子を書き残している。
『義弘様の左方から白糸威の鎧武者(一騎)、赤糸威の鎧武者二騎が連なって敵陣へ駆け入るのを、義弘様がご覧になって“時分よきときぞ、切り崩せ”と仰せられ、敵陣にお馬を入れられた』
 “狐”は赤糸威と白糸威の鎧を着た武者だったのである。義弘はむろんその事実を知っていて、あえて島津家の稲荷信仰と結びつけて、兵士の士気を鼓舞したのである」

 信仰をうまく利用するのも、名将の条件なのだろう。

『歴史人』2018年4月号「乱世を生き抜いた名家 島津家の謎11」より〉