織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? 3月19日(月)より配本開始の『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より「大村益次郎を襲撃した男」の生涯に迫る。
▲大村が襲撃された宿の西側に建立された「大村益次郎卿遭難之碑」(京都府京都市)

まさかの暗殺失敗……?
「火吹き達磨」の異名を持つ陸軍の生みの親を襲撃!

「火吹き達磨」の異名を持ち、「維新十傑(いしんじっけつ)」に数えられる日本陸軍の生みの親と言われる大村益次郎(おおむら・ますじろう)。医者から当代きっての一流の兵学者となり、幕末から明治維新にかけての諸戦で大いに活躍した益次郎は、京都で襲われた傷が原因で亡くなりました。その時の襲撃の主犯となったのが「神代直人(こうじろ・なおと)」という人物だったのです。
 神代は長州藩の萩藩士の家に生まれました。詳しい生年月日については分かっていませんが、長州藩の交友関係を見ると、天保11年(1840年)前後に生まれた人物が多いので、神代もその頃に生まれたと考えられます。
 父の神代一平は、萩藩内で中船頭という階級に属していた、いわゆる下級武士でした。普段は萩藩の三田尻(山口県防府市)に住み、仕事は船倉で船舶の操縦を行っていたそうです。
 一平の嫡男として育った神代は、御楯隊(長州藩が他藩に先駆けて募兵によって編成した近代軍隊の一つ。中でも「奇兵隊」が有名)などに名前が見えることから、萩藩の直臣として、諸隊に積極的に参加したエネルギッシュな若者だったようです。
 そして、その余りあるエネルギーは、過激な尊王攘夷思想(天皇を尊び外国を排除する思想)に結び付いていきました。

過激な尊王攘夷思想

 当時、長州藩には大楽源太郎(だいらく・げんたろう)という尊攘派の志士がいました。源太郎は、京都で吉田松陰らと交流を持っていた僧侶の月照(げっしょう)らに影響を受けて勤王思想を身に付けた、西郷隆盛らと交流をしていた尊攘派のキーマンの一人です。
 源太郎は長州に戻ると「西山塾(せいざんじゅく)」(西山書屋)という私塾を開き、多くの門弟(もんてい)を抱えました。その教え子の一人が神代であり、他の教え子には、第18代内閣総理大臣の寺内正穀(てらうち・まさたけ)などもいました。
 神代は源太郎の教えの下、「四国連合艦隊下関砲撃事件」で海外諸国と講和交渉を結んだ同じ長州藩の高杉晋作や伊藤博文の暗殺を企てるなど、過激な尊王攘夷派となっていきました。神代と同じく長州藩出身の大村益次郎は、医者の家に生まれ、福沢諭吉や橋本左内(はしもと・さない)らが学んだ緒方洪庵(おがた・こうあん)の適塾(てきじゅく=大阪大学医学部や慶應義塾大学の源流の一つ)で緒方洪庵から蘭学を学び、塾頭となりました。
 その傍ら兵学を学んで兵法者として台頭していき、やがて長州藩の倒幕運動に参加します。「戊辰(ぼしん)戦争」で大いに軍略の才を発揮して、新政府軍を勝利に導きました。
 明治維新後は新政府の重役となり、軍部のトップに就任して、軍制改革を行います。陸軍はフランスを倣い、海軍はイギリスを倣う改革を行い、藩兵を解体して国民皆兵を目指した「徴兵令」や、士族の帯刀を禁止する「廃刀令」などを推し進めようとしました。

 
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