織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? 3月19日(月)より配本開始の『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より「関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男」の生涯に迫る。
▲「関ヶ原の戦い」で最大級の激戦が繰り広げられたとされる、「関ヶ原古戦場 決戦地」。島津義弘の本陣は決戦地から約500m南にある。(岐阜県関ヶ原町)

前代未聞の敵中突破大作戦!
主君思いの家臣が成した、知られざる武功

 徳川家康の重臣として活躍し「徳川四天王」に名を連ねる井伊直政(いい・なおまさ)。赤い甲冑を身にまとった「赤備え」の軍勢を率いて「小牧・長久手の戦い」などで武功を挙げた直政は「井伊の赤鬼」と恐れられました。その後、初代彦根藩主となりますが、「関ヶ原の戦い」で受けた銃創が原因で亡くなってしまいます。
 その銃弾を放った人物こそ「柏木源藤(かしわぎ・げんとう)」という薩摩隼人(はやと)だったのです!
 源藤は天正7年(1579年)に生まれました。出自(しゅつじ)や幼少期の詳しいことは分かりませんが、成年してからは川上忠兄(かわかみ・ただよし)に仕えたといいます。
 川上家は島津家の重臣の家柄で、川上忠智(ただとも=忠兄の父)は島津義弘(しまづ・よしひろ=島津家当主の島津貴久の次男)の家老を務める人物でした。つまり源藤は、島津一族の家老の家臣、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)ということになります。

 島津家は天正15年(1587年)に豊臣秀吉による「九州征伐」で降伏して秀吉に仕え、天正20年(1592年、同年12月に「文禄」に改元)から始まった2度の「朝鮮出兵」に従軍しています。
 この時、源藤が仕えた川上忠兄は朝鮮半島に渡って戦っているので、19歳となって元服も終えたであろう源藤は、慶長2年(1597年)の2度目の出兵には従っていたかもしれません。
 源藤がはっきりと歴史上に名を残した戦は1つのみです。それが天下分け目の「関ヶ原の戦い」でした。

関ヶ原の戦いはどうして起きた?

 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権は分裂をし始め、五大老の筆頭である徳川家康が台頭していきました。
 まず家康は、五大老の前田利長(まえだ・としなが=利家の嫡男)に「謀反の疑いあり」として前田家を攻める動きを見せました。実母であるまつ(芳春院)を人質として江戸に送って、家康に臣従する道を選びました。
 前田家を従えた家康は、五大老の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)も同様に謀反の疑いを掛けて臣従させようとしました。
 しかし、上杉家は前田家と異なり「直江状(なおえじょう)」で家康に徹底抗戦を表明したため、家康は全国の諸大名を率いて上杉家の領地の会津を目指しました。
 ところが、下野(しもつけ)国から小山(おやま)まで軍を進めてきた時、畿内で石田三成(みつなり)が家康打倒の兵を挙げたため、家康はいわゆる「小山評定(おやまひょうじょう)」を開いて、率いている武将たちを味方につけると、軍を反転させて畿内へと向かいました。
 そして、家康率いる東軍と三成率いる西軍は、美濃の関ヶ原で決戦となったのです。

 
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