戦国時代の島津家では、みんなそろって側室を持たなかったという。一夫多妻が当たり前だったこの時代では異例にみえる。正室への純愛を貫いたのか。それとも極端な恐妻家だったのか。戦国島津家が側室を持たなかった件について、『歴史人』4月号で歴史研究家の桐野作人氏が一文を寄せている。

勇猛で知られる島津義弘も側室を持たず、正妻と生涯睦まじく暮らしたという。

「かつてカール・マルクスは『君主の最大の国事行為は生殖である』と喝破した。それは戦国大名でも例外ではない。大名たちは正室のほか、多数の側室をもち、多くの子女をもうけるよう努めた。
 ところが、戦国島津氏(相州家)は禁欲的で、大名の“家”の継続を理由にした、いわゆる一夫多妻制の原則をどうも採用していない。
 わずかに、日新斎忠良だけが例外で、薩州家重久の娘(御東)を正室に迎え、2男3女を得たほか、1人の側室上木貞時の娘(大仁、桑御前?)が1男1女を生んでいる。それでも、側室は1人だと思われる。
 次の貴久になると、初婚の肝付氏とは若くして死別し、後室に入来院氏の娘を迎えた。これが雪窓夫人で島津四兄弟のうち、義久・義弘・歳久と上の3人を生んでいる。四男家久を生んだ側室(橋姫、少納言)を迎えたのは雪窓夫人の死後であることから、後室と側室が同時期に存在していたわけではない。

 義久もまた、はじめ日新斎の末娘で叔母にあたる女性を正室に迎えたが、長女於平を生んでほどなく他界した。そのため、種子島時堯の娘を後室に迎えて、新城と亀寿の二女を得たが、婚姻から10年ほどで他界している。その後、義久は後添えも側室も文献上は見えない。
 義弘も先妻の北郷氏、後妻の相良氏とも離縁し、三番目の園田氏(宰相夫人)とは永年仲睦まじく過ごしており、側室の影は見えない。
 島津氏は日新斎をやや例外とするものの、原則として一夫一婦制を守っている。たとえば、義久のように娘しかいないのに、なぜ側室を置かなかったのか理解不能である。外部にはわからない島津家の不文律があったのかもしれない」

 島津家の女は強かったのか?

『歴史人』2018年4月号「乱世を生き抜いた名家 島津家の謎11」より〉