島津家歴史代当主の中で、義久のみ肖像画が存在していない。島津四兄弟の長男であり、その差配で島津家を繁栄させた名将の肖像画はなぜないのか。『歴史人』4月号で歴史研究家の桐野作人氏が解説している。

福昌寺跡に残る島津義久の墓。

「戦国島津氏(相州家)の歴代当主かそれに準じる人物は、日新斎―貴久―義久―義弘―忠恒(家久)の5人だが、このうち、肖像画がないのは義久だけである。
 義久は上の人物のなかで、押しも押されぬ、生まれながらの太守であり、家督も約40年間もの長きにわたって維持していたのに、肖像画がないのは合点がいかない。なぜだろうか。
 じつは義久の肖像画は作成されていた。義久は晩年、鹿児島城下西郊の下伊敷村の妙谷寺に寺領500石を寄進して自分の菩提寺とした。
 その死後、肖像画が描かれていたのはたしかである。『要用集』下に「御画像・御影・御牌所は妙谷寺で、御廟所は福昌寺」と記されている。すなわち、画像と御影(神像か)の2種あったことがわかる。

 

 しかし、同寺に秘蔵されていたはずの2種の肖像画は現存していない。そのいきさつは不明だが、明治初年の廃仏毀釈の嵐のなかで同寺が廃寺となり、新たに大平神社に衣替えした。おそらく、その間にそれらは失われたと思われる。大変残念な話である。
 義久には男子がなく、女子が3人いた。そのうち三女の亀寿が事実上、義久の家督相続者だといえた。じつをいうと、亀寿の肖像画もあったことがわかる。この時代、女性の肖像画は大変珍しいが、彼女がそのような地位にあったがゆえに描かれたのだと思われる。
 亀寿の肖像画はおそらく他界した寛永7年(1630)の直後に作成され、明治維新のあとまでその存在が確認されている。龍尾神社から島津家の氏神を祀る鶴嶺神社に合祀されていたが、惜しくも西南戦争のとき、政府軍兵士の乱入により掠奪され、以後行方不明のままである」

 島津家を戦国大名に押し上げた名将は、どのように描かれていたのだろうか?

『歴史人』2018年4月号「乱世を生き抜いた名家 島津家の謎11」より)