満洲事変、シナ事変と中国大陸を巡って日米両国が対立し、ついに日米戦争に発展してしまった――。こういった歴史観には致命的な欠陥がある。日米開戦を引き金を引いたのはソ連だ。江崎 道朗氏は著書『日本は誰と戦ったのか』 の中で、ゾルゲ事件で逮捕されたリヒャルトゾルゲの日本潜入の過程をこう記している。

■スパイ防止法を制定しただけでは、政治工作は防げない!

1928年のバンド(上海)

 新聞記者というのは取材という形で政治家たちと気軽に話ができるので、政治家や秘書たちと親しくなることも意外と簡単なのです。

 政治家のほうも、新聞記者は敵対する政党の政治家の動静などをよく知っているので、情報源として重宝するのです。かくして政治家と新聞記者はお互いに利用し合うようになって関係が深くなり、いつの間にか、新聞記者なのに、政治家以上に政治に影響力を発揮できるようになることがあるのです。

 しかも当時、中国の政治情勢は混とんとしていて、政治家はその分析に苦労していました。当時は中国国民党の蔣介石が政権を握っていましたが、国民党

 政権内部にもいくつもの派閥があり、その関係はよくわかりません。しかも中国各地には軍閥といって私兵を持つ政治指導者が割拠していて、国民党政権との関係も微妙でした。そうした混とんとした中国情勢について詳しい専門家が尾崎でした。このため、近衛首相をはじめとする政治家たちは、尾崎の中国分析を頼りにするようになっていったのです。

 かくして尾崎は第一次近衛【このえ】内閣(一九三七年六月~一九三九年一月)では内閣嘱託として首相官邸内に机を与えられ、秘書官室にも書記官室にも出入り自由になったのです。

 出入り自由ということは、マスコミに発表される前の、政府の見解や内部資料などもかなり自由に入手できたということです。

 戦前の日本には、軍機保護法といったスパイ防止法がありましたが、ソ連の工作員を内閣嘱託に任命して官邸に出入り自由にしていたのです。スパイ防止法を制定したところで、それを運用する政治の指導者たちがインテリジェンスに精通していないと大して効果がないことがこの一事からもよくわかるかと思います。

 尾崎はまた、近衛首相の側近として、政策研究会「朝飯会」に参加し、首相秘書官に直接、政策に関する意見具申をすることができました。さらに、昭和研究会という近衛首相の政策研究団体にも所属し、そこでも、特に対中国政策について政策提言を行っています。

 一方、華族という皇室の側近でありながら、マルクス主義に傾倒していた西園寺公一は「最後の元老」西園寺公望【さいおんじきんもち】の孫で、尾崎と同様に朝飯会の一員であり、近衛の側近でした。

 西園寺と尾崎は一九三六年にアメリカ・カリフォルニア州のヨセミテで行われた太平洋問題調査会(IPR)第六回大会で出会い、それ以来懇意の仲でした。

ゾルゲの外国通信員身分証明票

 ゾルゲは身分を偽装するためにナチスに入党し、新聞記者を装って来日すると、日本文化や歴史や地理を徹底的に学びました。日本通で日本文化を深く愛する外国人ジャーナリストとして自分を売り出すと、すぐに日本でも注目され、駐日ドイツ大使館でも日本に関する知識を買われてオイゲン・オット駐日大使に重用されるようになっていきます。

(『日本は誰と戦ったのか』より構成)