織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「川中島で武田信玄に一騎討ちを挑んだ男」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
川中島古戦場と伝わる八幡原史跡公園(長野県長野市)。信玄と謙信の、一騎打ちの像がある。

“越後の龍”上杉謙信と“甲斐の虎”武田信玄

 “越後の龍”上杉謙信と“甲斐の虎”武田信玄が5度に渡って繰り広げた「川中島の戦い」。中でも4度目の合戦は戦国史に残る激戦となり、乱戦の中で、謙信と信玄による一騎討ちが行われたと言われています。確かに『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』などの武田方の史料には、そのように記されているものの、『上杉家御年譜(ごねんぷ)』などの上杉方の史料では、ある別の男が信玄に一騎討ちを挑んだとされているのです。その男の名を「荒川伊豆守(あらかわ・いずのかみ)」といいます。
 実名が「長実」や「義遠」などと伝わっている伊豆守は、越後(新潟県)の戦国大名の上杉謙信に仕えました。詳しい出自や経歴は分からないのですが、上杉謙信に側近く仕えて多くの合戦に従い“健剛勇威の名”を挙げた若武者の1人だったといいます。また、上杉謙信を支えた「越後十七将」に直江兼続らと共に名を連ね、江戸時代には浮世絵にも描かれました。

 中でも「荒川伊豆守」の名を有名にしたのが、1561年(永禄4年)の「川中島の戦い」でした。
 当時、上杉謙信と武田信玄は信濃(長野県)の覇権を巡って対立していました。武田信玄の信濃侵攻によって、村上義清などの信濃の武将たちが領地を追われて越後に逃げ込み、領地を奪還するために上杉謙信の助力を得たことが合戦の大きな要因となっていました。
 その領地争いの最前線となった地が、川中島(長野県長野市)でした。いわゆる「川中島の戦い」と言われる合戦は、“第一次”が1553年(天文22年)に起き、続いて1555年(天文24年)に“第二次”が、1557年(弘治3年)に“第三次”が起きています。
 どの合戦も、小競り合いや長期に渡る睨み合いが続き、勝敗を決するまでには至らないものでした。そういった中で勃発したのが“第四次”とされる「川中島の戦い」です。一般的に「川中島の戦い」というと、この“第四次”を指すことが多いです。

 1561年8月7日、まだ「上杉政虎」と名乗っていた上杉謙信(謙信と名乗るのは1570年以降)は、居城の春日山城(新潟県上越市)から出陣し、決戦の地の川中島へ向かいました。8月15日に善光寺に到着した上杉謙信は自ら13000の兵を率いて、武田家の支城である海津城(後の松代城)を見下ろす西条山(さいじょうざん:妻女山とも)に陣を張り、宿敵の到着を待ちました。その中に、伊豆守の姿もありました。
 一方、甲斐の躑躅ヶ崎館の武田信玄の許に、上杉謙信の着陣の急報が届いたのは8月16日のことでした。信玄は2万の軍勢を率いて出陣し、24日に川中島に到着して西条山を囲んで上杉軍の退路を断ちました。

 捨て身の策とも取れる上杉謙信の策に、上杉軍の兵士の中にも動揺が走り、重臣たちが諫言したといいますが、上杉謙信は動じることなく西条山に腰を据えました。この時の伊豆守の様子は伝わっていませんが、上杉家中屈指の勇将であることを考えると、主君の策の意味を察して、静かに決戦の日を待っていたかもしれません。

 
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