織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「明治新政府の重鎮・岩倉具視を襲撃した男」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
襲撃現場となった「喰違見附跡」(東京都千代田区)

 幕末において、尊王攘夷派の公家として朝廷で権力を握り、倒幕の立役者となった岩倉具視。明治新政府では外務卿に就任して条約改正に乗り出すなど、明治維新に大きく貢献したことから「維新十傑」の1人に数えられています。
 しかし、岩倉具視は新政府内で、西郷隆盛や板垣退助らと「征韓論」を巡って対立をした結果、西郷や板垣を支持していた不平士族たちからの襲撃に遭ってしまうのです。
 この襲撃の首謀者となった人物こそ、武市熊吉(たけち・くまきち)という豪胆な男だったのです。

 実名を「正幹(まさもと)」という武市が生まれたのは1840年(天保11年)でした。同年には明治時代に実業家として活躍した渋沢栄一や、薩摩藩(鹿児島県)出身で第2代内閣総理大臣の黒田清隆などがいます。
 1853年(嘉永6年)のペリーの「黒船来航」や1860年(安政7年)の「桜田門外の変」など内憂外患で日本国が揺れる幕末において、土佐の塩江村(高知県高知市)の土佐藩士ということもあったので、3歳年上の同郷の板垣退助らと共に志士として奔走しました。

 1867年(慶応3年)に「大政奉還」や「王政復古の大号令」が起きると倒幕を機運が高まり、翌1868年(慶応4年)についに「戊辰戦争」が勃発しました。
 江戸幕府の旧臣たちを中心とした旧幕府軍と、薩摩や長州そして土佐を中心とした新政府軍による内戦です。武市はこの戦いに、板垣退助の部下として参戦し、各地を転戦とします。
 土佐藩の軍勢は中山道を東征し、甲府城(山梨県甲府市)を接収する功績を残し、「甲州勝沼の戦い」では甲陽鎮撫隊(旧・新選組)に圧勝し、「会津戦争」で鶴ヶ城(福島県会津若松市)を攻めて会津藩の降伏に貢献するなど、多くの武功を挙げました。
 その軍勢の中にいた武市の戦いぶりは実に勇敢であり、味方だけでなく敵にもその勇猛果敢さが知られていたといいます。

 
次のページ 板垣退助から「スパイ」を命じられる