織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「織田信長の暗殺を2度企てた男」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
遠藤直経の墓(滋賀県長浜市)

 通称を「喜右衛門」と名乗った遠藤直経は、小谷城(滋賀県長浜市)を居城とする浅井長政に仕える家臣でした。近江の坂田郡(滋賀県米原市)の出身であることから、浅井長政の幼い頃から仕えた守役のような存在でした。長じてからは軍事や外交などの相談役になるなど、浅井家きっての重臣であったといいます。
 智勇兼備の名臣だった直経らの支えもあり、北近江に君臨することができた浅井長政ですが、1570年(元亀元年)に大きな転機を迎えることになりました。

 直経が60歳を越えた年齢になっていたこの年に、浅井長政の義兄である織田信長(妹のお市が浅井長政の正室)が、浅井家と長年の盟友だった越前の朝倉家を攻め始めます。
 ここで浅井長政は、どちらに味方するべきか頭を強く悩ませました。浅井家の多くの家臣たちは「朝倉家に味方して、信長を討つべし」と主張しましたが、直経の主張は異なりました。

「だから“あの時に”信長を討とうと持ち掛けたのです! いま信長を敵に回せば、浅井家は滅びます!」

 つまり、信長討伐は時既に遅しとして、朝倉家に味方することに反対したのです。
 では、直経が言う“あの時”とはいつの事なのでしょうか。それはこれより2年前の1568年(永禄11年)に遡ります。
 この年に直経は、浅井長政からある人物の接待役を命じられました。その人物とは、足利義昭を新将軍に据えるために上洛をしようとしていた織田信長でした。義弟である浅井長政は、京都への道中である自身の領国で信長をもてなすことになったのですが、それを任されたのが直経でした。
『真書太閤記』などによると、直経は居城である佐和山城(滋賀県彦根市)で信長を恙(つつが)なくもてなし、信長も上機嫌だったといいます。それを見て安心した浅井長政は小谷城に戻り、一方で信長は、比較的お酒に弱い体質もあってか、宴会を終えるとわずかな小姓たちを率いて眠りについていました。
 接待を通して信長の才能と、内側に秘めた底知れぬ野心を感じ取っていた直経は、これを好機と見て、小谷城に走って浅井長政に次のような一計を持ち掛けます。

「表裏が激しい信長は、将来敵となって浅井家を滅ぼすので、この機を幸いに、いち早く毒殺しましょう! そして、新公方家(足利義昭)を浅井家に迎えて、我々が上洛を果たして末代までの名誉にするのです!」

 これが直経の1度目の信長暗殺計画でした。
 ところが、これ聞いた浅井長政は「浅井の弓箭(弓矢)の恥辱である」として、直経の計画を退けます。それでも食い下がる直経は、落涙しながらこのように訴えたといいます。

「その御判断は後日、必ず災いになります。暗殺に御同心ください!」

 しかし結局、浅井長政の意見は変わらず、計画が実行に移されることはありませんでした。一説によると、信長に刺し違える覚悟で信長の寝所を訪れようとしたところ、木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉の機転によって阻止されたとも言われています。
 とにもかくにも、直経が“あの時”と言ったのは、この時のことだったのです。

 
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