芸術家たちが好んだ宿は数あれど、自らの作品を残すほど愛した宿には、芸術家たちを惹きつける何かがあったのだろう。厳選した宿に残る作品と虜となった芸術家たちとの関係を紐解くコラム、第1回。
谷川岳と山々に抱かれるように佇む上牧温泉。この地で創業百年近い温泉宿「辰巳館」は、放浪の画家として知られる山下清がこよなく愛した宿である。その温かさに触れてみたい。

色彩豊かな明るい大壁画に心がほっと和む

 谷川岳を遠くに望む、利根川沿いの静かな温泉町、上牧温泉。
 この地には、利根川に流れ出た谷川岳の雪解け水や日本海側に降った雨や雪が地中で温められ、およそ17年の歳月を経て、豊かな温泉が湧き出ている。
 この上牧温泉をこよなく愛した一人に、裸の大将こと、山下清がいる。山下は、その師である式場隆三郎氏に連れられ、温泉宿「辰巳館」に来て以来、何度となく、この宿に足を運んだという。
「上牧温泉という自然に恵まれた静かな土地、温泉町の人々の素朴さや温かさに、山下先生の素朴で素直な人柄がぴったりあったようだと聞いています」と四代目女将の深津香代子さん。

 山下と宿との温かな交流の足跡は、館内のさまざまな場所に見ることができる。
 その一つが、1961年に完成した『はにわ風呂』である。
 この大浴場には非常に色彩豊かな大壁画がある。その名も「大峰沼と谷川岳」というこの壁画は、山下清の貼り絵の原画をもとに、特殊ガラスを使って、山下自身と式場、美術工芸家の手塚昇らと共に作成したもので、わが国でも唯一の山下清の壁画だという。
 ヨーロッパ留学を前にした山下が、視力の低下と戦いながら情熱を傾けて完成させた晩年の傑作といわれている。
 青い空に映える谷川岳、紅葉する山々、沼に釣り糸を垂れる人々などがクリアで明るい色彩で描かれ、どこかのんびりとほのぼのとしていて、見る者にほっと安らぎを与えてくれる。
 壁画左下の「山下清」の文字は、山下自身がすべてガラスを貼り付けて完成させたそうだ。
 この壁画を完成させてすぐに、山下は式場氏とともに、温泉に浸かったと聞く。
 滔々と湧き出す温泉は、柔らかな感触で、肌を優しく包み込む。温泉の主要成分である芒硝(ぼうしょう)は肌の潤いを保ち、みずみずしく整えてくれるので、美肌の湯としても知られている。
 まろやかなお湯に手足を伸ばして、ゆっくりと浸かりながら壁画を見つめていると、壁画の中にすっと吸い込まれて、まるで登場人物の一人になったような気持ちになるから、不思議だ。

 館内の渡り廊下に、山下の作品が展示されている。
「はにわ風呂」の大壁画のもとになった貼り絵や、「はにわ風呂」の様子を描いたもの、対岸からこの宿を眺めた風景、温泉宿の楽しげな宴会風景など、どの作品にもこの宿を心から愛していた山下の温かな目線を感じる。

 
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