新学期シーズンが到来しています。長い休みを明けると、リフレッシュする一方で、もやもやっとした気持ちも出てくるのではないでしょうか。それは子どもも教師も同じかもしれません。そこで2016年1月9日に『尊敬されない教師』(ベスト新書)を刊行した諏訪哲二さんに、これまでも教育界をめぐる問題提起を世に送り出してきたなかで、あえて今「権威性」というものを社会に問いただした経緯を伺いました。

 

――最新刊『尊敬されない教師』は、タイトルからですとつい「尊敬される教師とはこういうもので、尊敬されない教師とはこういうもので……」という資質論なのかなと思ってしまいますが、中身は全く違います。特にそういう資質論に従事した昨年刊行されたある1冊の本に違和感を覚えていらっしゃるように感じられます。


「教育などの私たちの社会的営みは、まず理論や理屈があって始まったものではなく、人類の進歩、社会生活の変化にともなって人間に必要になって始められてきたものです。そういう生活世界の必要性、つまり近代人にとっていかに教育(学校)が必要になったかの土台を踏まえて、“教師の位置づけがどう変わってきたか”を語ろうとしました。
“教育は必要である”ことだけは正しい事実ですが、”教育とは何か”はいうまでもなく、“いい教師とはどんな教師か”とか、“学校はいかにあるべきか”などの結論は未だ出ていません。
だから、“いい教育”や“いい教師”を前提にして話を始める人は一番警戒すべき人たちです」

――実際に現場に立っていたときと、今俯瞰する立場から見たときの教育現場への思いに変化はありますか。

 

 

「現役のときは、“教師はこうあるべきだ”ではなく、“教師はこうやらざるをない”という事実を書くと、責任逃れや自己弁明のように受け取られる可能性があり、学校の現場は“こうなっている”のを書くのは非常にむずかしかったのは事実です。
世の人達は教師と生徒にはひととひとの価値観の争いがあるということを認識していません。みんな自分の子どもの頃の牧歌的な学校をイメージしているので、教師の権威性がいまでも働いていると思っています」


――ということは、もう先生が現役で働いていた時代から権威性の喪失は始まっていたのですね。

「教師の権威性の土台が社会構造の変化、個人の意識の変化、生徒の自立、親の主張によって掘り崩されていることになかなか気づいてもらえませんでした。
その点、教師と生徒の関係の厳しさが最近になって気づかれてきたように思います」


――権威性の喪失に関するひとつの理由として、先生が本書で取り上げられている本のように、昨今は教師のレベルが、質が悪くなったというのはやはり関係するのでしょうか。

「教師もそれぞれの個人であり、環境や受けた教育、つまり社会の動向によって変わってきていますから、教師の質が変わったことは事実だと思います。教科にかんする力は現在の若い教師たちのほうが優れているように思います。
ただし、“知っていること”と“教えることができること”は一致していません。その教師の人間としての幅や生徒の理解力、コミュニケーション力が問題になります。その点では幅のせまい人たちが増えているといっていいでしょう」


――では、それはひとつの原因だということですね。

「でも、これも時代の流れですから、そのこと自体をあげつらっても生産的でないといえます。そういう人たちが教師を全うできるように態勢を作っていってやることを考えるべきです。
さらに最近は何でも学校の教師のせいにしたがる風潮があり、子どもや親の変容によって、学校が大きく変わらざるをえなくなり、教師が追いつめられていることも事実です。それを教師の力量のせいだけにするのはまったくのお門違いだと思います。また世の中全体に昔に比べれば教師を低く見たがる傾向が強くあることも問題です」


――バッシングの嵐はすべて教師に集中しています。保護者や教育関係者が教育問題を考える際にはどうしても、そちらに目がいってしまいます。

「ひとがひとに教えることは困難を伴います。
教師がいかに教えようとしても生徒に受け入れる姿勢がなければ教育は成り立ちません。つまり、教育は双方向的なものです。もちろん、“教える側”にちからが必要であると同時に、“教えられる側”にもそれに対応するちからが求められるということです。その土台は主として家庭で形成されます。
それに生徒は“教えられること”の正しさはとりあえず判断できませんから、“まず受け容れる”姿勢が必要です。
教師の権威性が大切にされるべきなのは、ここに由来します。教師と生徒の上下性は教育の出発点です。教師と生徒はひととしては対等ですが、教授関係では上下性が必要であることを認識すべきです」


――そこを社会が認識したうえで、教師自体もこの時代に合わせて変わらなければならない部分もあるのでしょうか。

「これは一般論で語るしかないのですが、幅広い知識・教養と教科の専門性を身につけていること、そして、生徒の動きや反応や変化に敏感に反応できる人間の幅が必要でしょう。
でも実際にはそんなに絵に画いたようなすごい教師はいませんから、最低限必要な教師としての資質は、ひとを教えるということに対する“畏怖”の気持ちと、生徒というひとに“謙虚”な姿勢を持ち続けることでしょう」


――すでに本書を読まれた方に対して、ならびにこれから読もうと思っている方に対して、それぞれメッセージをお願いいたします。

「何気ない日常の風景の中に、豊かな哲学や人間観、ひとの生き方が隠されていることに気づいてほしいと思います。
教えることも本を読むことも自分を“高めていく営み”であると私は信じています」