「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、まずは「承久の乱」の後醍醐天皇にスポットを当てる。
隠岐 後鳥羽上皇行在所跡/承久の乱で敗れた、後鳥羽上皇は隠岐に流され亡くなるまでの20年間を過ごした。

幕府軍総勢19万人! 朝廷の予想を覆す大軍が集結

 後鳥羽上皇を中心に、皇子六条宮・冷泉宮、外戚でもある坊門忠信・信成、順徳天皇の姻戚高倉範茂・範有、近臣の藤原秀康・葉室光親らによって倒幕の計画は秘密裡に進められた。承久3年(1221)4月、順徳天皇が譲位、わずか3歳の仲恭天皇が即位した。
 倒幕の準備が進むなかで、上皇は京都守護の伊賀光季・大江親広に味方に付くよう迫ったところ、親広は院の命令に従ったものの、光季は拒否。そのため上皇は、5月14日、鳥羽離宮内の城南寺の「流鏑馬沙へ」と称して西面・北面の武士、近国の本所領荘園の武士、京都警備のため在京していた御家人を集め、さらに畿内近国14カ国の武士を募ったのである。翌日、京都守護の伊賀光季を攻めて敗死させると、幕府の執権北条義時追討の院宣・宣旨を下したのである。
 さらに藤原秀康は下人を鎌倉に派遣、有力御家人に院宣を伝えて幕府からの離反を画策したのである。もっとも、この下人は、同19日には途中で捕らえられ、院宣も押収されたため御家人に届くことはなかった。

 

 それでも、幕府にとって、事は重大であった。天皇や朝廷の大きな権威が、彼ら東国の御家人に大きな威圧となってのしかかった。そのため、北条義時は御家人の反応を心配した。幕府の御所に集まった多くの御家人を前に、北条政子は、亡き頼朝が平家を亡ぼしてから今日まで、官位といい俸禄といい、その恩は山よりも高く大海よりも深いと力説、これが御家人の動揺を静め、不安を和らげることにもなった。
 こうして、朝廷方の期待に反してほとんどの東国御家人は幕府に離反することなく、大江広元の意見によって京都ヘの攻撃が決定した。22日から25日にかけて、遠江・信濃以東15カ国の御家人に動員命令が下され、北条泰時・時房、千葉胤綱らを大将とする東海道軍10万余騎、武田信光、小山朝長らが率いる東山道軍5万余騎、北条朝時、結城朝広らが率いる北陸道軍4万余騎が京都に進撃したのである。
『吾妻鏡』が記す総勢19万騎は誇張した数であろうが、朝廷方を震撼させるには充分な大軍であったに違いない。