「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、「承久の乱」の次は「南北朝の戦い」の後村上天皇にスポットを当てる。
 
石清水八幡宮/観応の擾乱における「八幡の戦い」の舞台となった。

6歳にして陸奥将軍府の主帥、幼少時から戦乱に身を晒す

 後村上天皇は諱を義良といい、父後醍醐と母阿野廉子(新待賢門院)の間に嘉暦3年(1328)に生まれたと考えられている。義良が父後醍醐没のあとをうけて第二代南朝天皇として即位するのは延元4年(1339)8月15日(当時数え12歳)。後村上の在位はこれより正平23年(1368)3月摂津住吉で没する(41歳)までの足かけ30年間である。南朝の本拠はこの間に畿南の山間を転々とした。後醍醐が当初本拠と定めた吉野が幕府軍に攻められて正平3年(1348)1月に陥落したのち大和賀名生→河内東条→摂津住吉→山城男山→大和賀名生→河内天野金剛寺→河内観心寺→摂津住吉という具合である。

 こうしためまぐるしい移動は、後村上天皇が終始戦いのなかに身を置いていた証拠である。後村上天皇の動向は綸旨(天皇の命令書)によって具体的に知られる。筆者の収集によれば、年次明確なものに限ってみても少なくとも約450点はある。内容的には多岐にわたるが、最も中核的なのは軍事や恩賞にかかわるものである。そのことはとりもなおさず、後村上の生涯が北軍(室町幕府軍)とのいくさに明け暮れたことを示している。

 

 元弘3年(1333)、建武の新政を開始した独裁君主後醍醐天皇は東国武士の勢力基盤である陸奥・出羽鎮撫のために統治機構たる陸奧将軍府を新設し、その主帥のポストに義良を据えたのである。義良はいまだ6歳の幼児であったから、その輔佐の役に北畠親房・顕家父子がついた。顕家は従三位・陸奧守に任ぜられて、同10月一行は陸奧へ下向。このため義良は「陸奥親王」と称された。この後義良は軍事的な目的から二度上洛するが、義良の陸奧滞在期間はトータルで3年半におよぶ。この間にあって、義良が建武元年5月に立親王、建武2年12月陸奧白河の雄族結城親朝を侍大将に任じたこと、同3年正月結城宗広(親朝の父)にあてて軍忠を褒したこと、延元元年(建武3)3月には元服、三品・陸奧太守となり、同月結城親朝を下野国守護に補任したことなどを勘案すると、義良は幼少とはいえ、余人に代行できない重要な権限を持っていた。