「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、「承久の乱」の次は「南北朝の戦い」の後村上天皇にスポットを当てる。
 
石清水八幡宮/観応の擾乱における「八幡の戦い」の舞台となった。

北畠顕家軍のシンボルとして、室町幕府の迎撃軍と激突

 延元3年(1338)正月28日、義良親王を奉じて奥州から進撃途上の北畠顕家の軍が美濃国青野原(岐阜県大垣市)において室町幕府の迎撃軍を討ち破った。これを世に青野原合戦という。当時すでに京都の支配権は北朝を擁立した足利氏によって握られていた。京都奪還をもくろむ後醍醐天皇は北陸の新田氏、畿南の南朝勢力、そして奥州からの西上軍と示しあわせて京都を包囲しようとした。戦いの様子は『難太平記』『太平記』に描かれているが、北畠顕家軍は中先代の乱の残党を含めて30万騎とも50万騎ともいわれる。対して幕府の軍勢は少なく、幕府の大将格の高師冬や驍将美濃守護土岐頼遠らは青野原に第一陣をしき、将軍の親衛隊長高師泰らは近江・美濃国境の黒地川岸に第二陣を構えた。

 顕家軍は第一陣を撃破したものの、すすんで第二陣を突破することをせず、迂回して美濃垂井から伊勢路を経て奈良に向かった。この進路変更の理由として『太平記』は顕家が新田義貞に功を奪われることを嫌ったためだと記す。この話は南朝軍を構成する軍勢のなかでも意見の対立があったことを彷彿させる。この青野原合戦の時点で義良(のちの後村上天皇)はなお数え11歳の少年にすぎず、この合戦においてどのような役割を果たしたか明瞭ではないが、顕家軍の権威のシンボルとしての輝きを強く放っていたことは明らかであろう。

 

 延元3年5月和泉堺浦における北畠顕家の戦死は奥州支配構想の変更を余儀なくさせた。かくして延元3年9月、義良は新たに陸奧介・鎮守府将軍に任ぜられた北畠顕信(顕家の弟)やその父親房らと船隊を組み、三たび東国へ赴くべく伊勢(大湊)を出港した。しかし義良一行は海上で大風にあってちりぢりとなり、当の義良は「伊勢国篠島」(『新葉和歌集』。現在愛知県知多郡)に漂着した。こののち義良は奥州へは赴かず、翌年3月吉野に戻って後醍醐天皇の皇太子になるのである。後醍醐没の半年まえのことであった。