「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、「承久の乱」の次は「南北朝の戦い」の後村上天皇にスポットを当てる。
 
石清水八幡宮/観応の擾乱における「八幡の戦い」の舞台となった。

後醍醐天皇の悲願が表された遺詔

 後醍醐天皇の没は延元4年(1339)8月16日である。『太平記』巻21は後醍醐臨終の際の遺詔を感動的に描いている。

「……玉骨はたとい南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」

 という文言で広く知られるこの遺詔には、自分の悲願は朝敵を亡ぼして天下を泰平にしたいだけである。自分の死後は第七宮(義良)を天子の位につけ、みんなで力を合わせてがんばってほしい。なので自分の骨は吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の方角をみつめている。この遺命に背く者は天子でも忠臣でもないなどと書かれ、後醍醐の悲願をよく表現しているが、残された南朝君臣の心を京都奪還に向けて団結させるうえで絶大な効果をもったであろう。義良は父帝没の前日に即位して後村上天皇となっていたが、後村上の京都奪還の決意もこのとき不動なものになっていたに相違ない。後醍醐の危篤状況と後村上新帝擁立の情報はただちに列島各地で転戦中の皇子たちに伝えられた。筑後の『五条家文書』に収める五条頼元にあてられた延元4年8月15日後醍醐天皇綸旨はその直接史料である。

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