満洲事変、シナ事変と中国大陸を巡って日米両国が対立し、ついに日米戦争に発展してしまった――。こういった歴史観には致命的な欠陥がある。日米開戦を引き金を引いたのはソ連だ。 江崎道朗氏が著書『日本は誰と戦ったのか』の中で展開するインテリジェンスヒストリー。

■ラティモアの並外れたソ連への忠誠心

 エヴァンズらによれば、結局、ハルが暫定協定案を放棄した理由として文書に残っているのは、「蔣介石からのメッセージ」だけなのです。

中国の専門家として頼りにされたオーウェン・ラティモア(左から二人目)

 蔣介石の特別なメッセージとは、ラティモアの公電に他なりません。

 しかし、よく見ればわかるように、この公電は、ラティモアが「これが蔣介石の考えである」と述べたものです。蔣介石自身の言葉ではないのです。

 エヴァンズらは、蔣介石メッセージを打電したラティモアがどういう人物で、日本や中国に関してどのような言動をとっていたのか、ソ連との関係はどうだったのかについて、執拗【しつよう】に追及しています。

 まず注目される点は、ラティモアを蔣介石の顧問として中国国民党政府に送り出したのが、ソ連の工作員であるカリー大統領補佐官であるということです。

 アメリカ連邦議会上院の国内治安小委員会『太平洋問題調査会報告書』(一九五二年)には、次のような事実がはっきりと記されているのです(引用者の私訳)。

ラティモアを蔣介石の顧問として任命するよう最初に推薦したのはラフリン・カリーだった。当時国務省の極東外交の顧問だったスタンレー・K・ホーンベック博士は、カリーが博士にラティモアが任命されることになっていると告げたとき、反対意見を言ったと証言している。
その際、カリーは自分がラティモアを推薦したと認めただけでなく、ラティモアの任命はもう決まったことなのでホーンベックが薦める候補者の任命は不可能だと述べた。カリーはさらにホーンベックに対し、ラティモア任命について国務長官とは相談すらしていないと認めた。(米国上院国内治安小委員会『太平洋問題調査会報告書』、p.179

 日米和平交渉を決裂へと追い込んだハル国務長官の対日政策の変更、この変更に決定的な影響を与えた蔣介石のメッセージを「作成し、アメリカ政府に送ってきた」オーウェン・ラティモア。このラティモアをアメリカ政府の代理人という形で蔣介石顧問のもとに送ったのは、ソ連の工作員であったラフリン・カリー大統領補佐官であったというのです。しかも、この判断をカリー補佐官は、ハル国務長官に相談もせずに独断で決定していたのです。

 蔣介石総統のメッセージを「作成」したオーウェン・ラティモアはジョンズ・ホプキンス大学の教員で、太平洋問題調査会(IPR)の中心的なメンバーでした。

 父親の仕事の関係で十二歳まで中国で過ごしたラティモアは十九歳で再び中国に戻り、中国語やモンゴル語を独学で習得して、当時、ソ連の工作員たちが暗躍していた中国の内陸部や内モンゴルやインドなどを旅して回りました。満洲の調査にもあたっています。

『パシフィック・アフェアーズ』1939年6月号の表紙

 一九三三年にアメリカに帰国すると、IPRに招聘され、翌年にはその機関紙『パシフィック・アフェアーズ(Pacific Affairs)』の編集長となり、一九四一年まで務めました。ラティモアを招聘【しょうへい】したのは、一九三三年にIPR事務総長に就任したエドワード・カーターです。

 
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