ラティモアは学歴らしい学歴はないのですが、中国大陸での豊富な経験と知識を評価され、ルーズヴェルト政権では、中国と満洲の権威として扱われました。

 一九四〇年代を通じて、ラティモアは、アメリカ政府の要職を歴任しています。

 先述の蔣介石顧問のあと、一九四二年から一九四四年までルーズヴェルトが設置した情報・プロパガンダ機関、戦時情報局(OWI)の太平洋部長、一九四四年にはウォレス副大統領とともに延安の中国共産党を訪問、一九四五年から一九四六年まで日本の戦後政策に関する政府顧問、四〇年代後半は中国・韓国・その他のアジアに関する国務省への助言者といった具合です。

 尾崎秀実が近衛内閣のブレーンとして首相官邸内に机をもらっていたのと同様に、ラティモアも国務省内に机を与えられていました。

 エヴァンズは、『ヒューマン・イベント(Human Events)』というアメリカの保守派の雑誌に書いた記事「マッカーシズム アメリカ国内の冷戦を戦う(McCarthyism: Waging the Cold War in America)」で、ラティモアに机を与えたのは、ソ連の工作員であったラフリン・カリー補佐官だったと述べています。

 ラティモアの親ソ的発言は戦後、アメリカの連邦議会でも問題視されました。たとえば、前述の米国議会上院国内治安小委員会(マッカラン委員会)の『太平洋問題調査会報告書』は、『パシフィック・アフェアーズ』一九三八年九月号のラティモアの記事を引用しています。

 ラティモアはこの記事の中で、スターリンによるソ連の国内の政敵に対する大粛清を「習慣的な調整」と言い換えて、次のように述べています(引用者の私訳)。

「習慣的な調整」は、普通の市民が将来「党の誰か」または「政府の誰か」に虐待されたときに声を挙げて抵抗するための勇気を与えるだけだろう。それは私には民主主義のように聞こえる。
(『太平洋問題調査会報告書』pp.16-17)

 一九三六年九月から一九三八年十一月をピークとするスターリンの大粛清は、ソ連社会のあらゆる階層を標的とした凄まじい殺戮でした。

 ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書 ソ連篇』(邦訳はちくま学芸文庫、二〇一六年、三七四頁)によると、「一九三七年から一九三八年の間だけでソ連の諜報機関NKVDによって一五七万五〇〇〇人が逮捕され、この間に一三四万五〇〇〇人(八五・四%)が有罪とされ、六八万一六九二人(一九三七~一九三八年に有罪とされた者の五一%)が処刑されたことが判明して」います。

 エヴァンズは『歴史によってブラックリストに載せられて(Blacklisted by History)』(Crown Forum, 2007, p.389)の中で、「スターリンの大粛清に衝撃を受けて共産主義に背を向けた西側の知識人は少なくないが、ラティモアは全く動じていないようだ」と述べています。

 ラティモアが、アメリカ共産党に所属していたかどうかは確認されていません。しかし仮に党員でなかったとしても、ソ連への忠誠心が並外れていたことがよくわかります。

(『日本は誰と戦ったのか』より構成)