江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
写真を拡大 図1『敵討時雨友』(南仙笑楚満人著)

 図1は、若い娘の身売りの場面である。
 右下の男が娘の父親。左の男は女衒(ぜげん)で、父親に金を渡しながら、
「まず、きさまの娘は孝行者だ」
 と、なぐさめている。
 奥にいるのが、父親から金を取り立てようとしている男。父親の借金を清算するため、娘は売られるのだ。
 女衒は買い取った娘を駕籠に乗せ、吉原などの遊里に連れて行き、妓楼(女郎屋)に転売した。こうした身売りは江戸時代、ごくありふれた光景だった。
 貧しい親はしばしば娘を売った。また、世間も、売られていく娘を、「親孝行をした女」と理解し、「ふしだらで男好きなので遊女になった」とはけっして考えなかった。女衒のセリフも、こうした社会意識を背景にしている。

 

 身売りは、表向きは下女奉公なので、きちんと年季と給金を取り決め、証文(契約書)を取り交わした。しかし、実際には給金の全額を親に前渡しして、本人はいやおうなく遊女になるのだから、事実上の人身売買だった。
 こうした人身売買を仲介する女衒は、人買い稼業といってよい。
 図1の娘は十代なかばくらいであろうが、貧農などが口減らしの意図もあって幼い娘を売ることも多かった。
 旗本と思われる匿名の著者の筆になる『世事見聞録』(文化13年)は、農村の身売り事情にについて――

 国々の内にも越中・越後・出羽辺より多く出るなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るといふ。

 と述べ、越中(富山県)、越後(新潟県)、出羽(山形・秋田県)の貧農が幼い娘を三~五両で女衒に売っている、と。
 不作などで困窮した農村を女衒がまわり、女の子を仕入れていたのである。
 たとえば吉原では、女衒を通じて買い取った十歳前後の女の子を禿(かむろ)として育てながら、遊女としての訓練をした。そして、十五歳前後で正式な遊女にして客を取らせた。

写真を拡大 図2『春の文かしくの草紙』(山東京山著、嘉永6年)

 図2は、女衒が多くの女の子を仕入れて連れて行く途中、旅籠屋に一泊したときの情景である。
 左上で、親元から引き離された幼い女の子が寂しがって泣くのを、年長の女の子がしきりになぐさめている。いじらしい光景といおうか。
 いっぽう、右下の女は宿泊客に饅頭を売りに来た行商人である。行商の女が、
「あいあい、おまえがたは、みんな越後かえ」
 と、声をかけている。女はちゃんと身売りの事情を見抜いていた。

 江戸時代、身売りはごく当たり前におこなわれていたのがわかろう。
 吉原を筆頭とする遊里の繁栄は、こうした身売りに支えられていたのである。