江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

 吉原は公許の遊廓である。火事で全焼するなどして営業できなくなった場合、妓楼が再建されるまでのあいだ、二百五十日とか三百日とか期限を区切って、浅草や深川などの料理屋、茶屋、商家、民家などを借りて臨時営業をすることが認められていた。これが仮宅(かりたく)である。

写真を拡大 図1『中洲之華美』(内新好著、天明九年)

 木造家屋が密集していた江戸は火事が多かったが、明暦三年(1657)に千束村に移転したあとの吉原(正式には新吉原)もしばしば火事に見舞われた。明和五年(1768)から幕末の慶応二年(1866)まで、合わせて十八回も全焼している。そのたびに仮宅になった。

 仮宅は江戸の市中で営業するため、辺鄙な場所にある吉原にくらべて格段に便利である。また、臨時営業のため格式や伝統にもとらわれず、遊女の揚代も安かった。趣向が変わっていて面白いという男もいた。

写真を拡大 図2『奇事茂中州話』(山東京伝著、寛政元年)

 この結果、仮宅になると、それまで吉原や花魁には無縁だった男たちまでがどっと詰めかけ、吉原のとき以上に活況を呈した。
 図1と図2は仮宅の光景だが、図1を見ると格子は竹で、すぐ前には掘割があり、いかにも急ごしらえだった。また、図2で、仮宅の看板を掲げているのがわかる。

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