日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

史上最多の観衆の前で歴史を変えた切腹劇

 

 秀吉は、毛利との交渉を一気に妥結(だけつ)させるため、領土については条件的に譲歩して「備中西部と伯ほう耆き西部より西の区域を毛利領とする」という条件を提示。また、「清水宗治は責任者として切腹させるが、籠城兵の命は助ける」という城主切腹城兵救命の実行を求めた。


 毛利サイドにすれば、宗治は毛利の家に代々仕える家臣ではなく、毛利を頼ってきた地方領主に過ぎず、その切腹は、条件として受け入れがたかった。
宗治は、自分が生きるか死ぬかで和平交渉が停滞していることを知ると、交渉にあたっていた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に対し、このように決意を語った。


「後世に名を残すことこそが武士の本望です。それがしが切腹することにより、毛利家が救われるのなら、一命をなげうちましょう」


 宗治の一言により、両軍の和議は結ばれ、備中高松城攻めには終止符が打たれている。 6月4日、水攻めによって生まれた湖へ小舟を浮かべ、両軍の兵士が見守るなか、宗治は、隆景から拝領した短刀で腹を十文字に切り裂いて絶命する。そして、籠城した兵士たちは約束通りに助命され、毛利領の三原へと移された。

 

 宗治切腹の光景は、命を救われた5000の籠城兵をはじめ、羽柴勢3万と、救援に駆け付けた毛利勢4万によって目撃されている。その大多数は、ようやく小舟の存在が視認できる程度だったとはいえ、1人の自殺を数万人もが目撃したことは、世界史上、きわめて稀な出来事といえよう。
<次稿に続く>